おれは何故だか、今日も今日とて、雨の降る寒空の下、青のビニール傘をお供につっ立って世間話をするはめになっていた。まあ、いるだろうと分かってはいな がらもその道を何となく通ってしまったおれの自業自得と言えなくもないのだが。

 場所は数分から十数分おきに警告音が鳴り響く踏切横。時刻は午後8時近く。電灯のやけに白い人工的な光がぼうっとおれたちを夜から浮かび上がらせて、これ では幽霊に間違われたって文句は言えないくらいだが、話し相手はまさに幽霊だと推測される男でまったく冗談にならなかった。

「で、何か思い出せたか?」

「いーや、何も」

前回と言うか初めてこの男に話し掛けたとき、この男がいっさいがっさいの記憶を無くしていることを知った。おれが話し掛けるまでのことはどうやら意識に まったく無く、無意識に延々と泣き続けていたらしいことも知った。そして、連日のしとしととした雨にしてはおかしなくらい濡れたスーツやら金髪やら、表情 や感情に関係なく流れ続ける涙やら、この男の言動やらから、おれたちはこの男がとびっきりの不審者か、幽霊という結論に落ち着いた。ちなみに幽霊じゃない かという方が有力だ。ウソップあたりなら幽霊かよ、オイと突っ込みそうだが仕方ない。おれは元々幽霊とやらを信じていない訳ではない。まあ、そういうもん もいるだろう。

「んな呑気なこと言ってねェでさっさと思い出せ。そんでさっさと成仏しろ」

「てめェに関係ねェだろうが。てか何で思い出すことと成仏することが繋がるんだよ」

「何か未練があるから成仏できねェんだろ。その未練をとにかく思い出せって言ってんだ」

「あ、あー」

そう言って男はちょっと俯くと人差し指でぽりぽりと頭を掻いた。どうやら納得して頂けたらしい。そうして今度は目を閉じて眉を寄せた。その拍子に金色の睫 毛を震わせて一粒涙が、雨粒と一緒くたになってその頬を伝って落ちた。

 まるで《泣いている》みたいなその姿を見て、この男は悲しんでなんかまったくないと知っていながらも、おれはどうにももやもやとした不愉快なものが胸の中 で渦巻いているように感じた。この男はまったくもって泣き顔が似合わない気がするのだ。勿論泣き顔というか、涙を流して鼻も瞼も泣き腫らして赤くした以外 の顔なんて見たこともないのだが、でも、ともかく気に食わなかった。

「なあ、傘、ささねェのかよ。せっかく持ってんのに」

「あ?ああ。なんかこれ、開かねェんだ」

そう言って男はひょいと右腕にかけた傘をとって留め具をぐいぐいと引っ張ってみせた。なるほどそれはぴくりともしなかった。だがそんなことよりも、その動 作を見ておれは、電灯によって白く浮き上がった手がやけに荒れているのに、どうしてだかとても綺麗に思えてつい見とれてしまう。いや、綺麗というのは少し 違うかもしれない。爪の根本にはささくれがあったし、ところどころ傷もある。だからどちらかと言えば綺麗というよりも、好きな手と言った方がいいのかもし れない。

「じゃあ入るか?」

そう顔をあげながら傘を少し持ち上げて問う。

「いや、いい」

しかし男はそう口角を優しくあげて言った。

「おれ、なんか雨に濡れてる感覚ねェし、その傘小せェしな」

その笑い顔とも泣き顔ともつかない、でもきっと本人は笑っているつもりなんだろう顔に胸がぐうと詰まる。

「あ、あと少し思い出せたぜ」

「あ、何だ?」

そしてその表情のまま、今度はふわりと優しく目尻が下がった。やはり胸がぐうと詰まった。心臓がまるでぎゅうと縮んでいつもの二分の一位の大きさになって しまったみたいだ。

 そしてそれと一緒に、何かとても嫌な予感めいたものがした。何故か先ほどまではまったくと言っていいほど意識に入らなかった周りの電柱やら、警戒を促す黄 色と黒、その向こう側に見える線路だとかが急に視界に入った。

「何かおれ、よくは思い出せねェんだが」

「ああ」

雨の音がやたらとよく聞こえる。遠く、すごく遠くの方から電車がやって来る音も聞こえた。

「何か、剣を持った後ろ姿みたいのがぼんやり思い浮かぶんだ」

こんな話の場合はきっとその相手は

「きっとそいつに会いたいんじゃねェかって思うんだ」

多分恋人だろうな。そう思ったらやけに世界が客観視したみたいに広く感じられて、おれはそのどこに意識の焦点を当てたらいいのか分からなくて心許なくな る。背骨のあたりにも、嫌な寒気がする。

 もしかしたらおれは、こいつが好きなのかもしれない。自分が訳の分からないショックを受けて初めて、そう思った。



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