久々の雨だった。

 あれからやはりあっという間にときは過ぎ、雨の降らない焦れったい五月がじりじりと終わり、毎日が楽しみだった梅雨もとうとう終焉を迎えた。そんな日々 の中でしとしととした雨の降る日にはあの金髪男と話して、おれは会う度にひとつずつ好きなところを見つける始末で、はっきり言って困っていた。

 一番最初は、(泣きながらではあるのだが)笑った顔。次は、さりげなく優しいところ。その次は、口ではきついことを言いつつも人に気を使えるところ。そ んな風にひとつずつ良いところを探し出していくのは楽しいと言えば楽しいし、嬉しいと言えば嬉しいのだが、あの男の《会いたいやつ》を探すのも、成仏させ てやろうと考えるのも辛くなるばかりだった。もういっそ、そんなこと投げ出してしまおうか。そんなことを考え、しとしとと静かに降る雨を教室の厚い窓ガラ ス越しに見ていたときのことだった。

「涙雨ね」

後ろの机のところにはナミとロビンがいたのだが、座っていたナミが急に独り言みたいにぽつりとそう言った。

「ナミダアメ?」

水滴が伝う窓ガラスから目を反らし、ナミの方を向いてそう問えば、天気について詳しいナミは何故だかちょっと淋しそうに笑って言った。

「こんな風にね、少しだけ雨が降るのをそう言うのよ。ほら、泣いてるみたいでしょ?」

「でも明日じゃなくて良かったわね」

そう今度はロビンがうっすらと微笑んで言う。

「明日だったら七夕だったから酒涙雨だったわ」

「サイルイウ?」

この二人は雑学系にも無駄に知識が広い。女はそういう話が好きなだけかもしれないけれど。そう思いながら今度はロビンに問う。

「七夕の日に降る雨のことよ。天上の織姫と彦星が出会えなくて流す涙という言い伝えがあるの」

催涙雨とも書くわね。そう言ってロビンは、開きっぱなしだった化学の授業用だろう几帳面にベンゼン環やら化学式の並ぶノートの端っこにさらさらと三文字の漢字を書き付けて示し、すぐに消しゴムで消した。

「ふうん」

なんてことのない顔を装ってそう言いながらおれは、だったらこの雨はあいつの涙なのかもしれない、と柄にもない女々しいことを思った。あいつが、誰かを想って、涙を流していることさえ忘れるほどに泣いて、降らせる雨なのかもしれない。

 現実にはあり得そうにない話だ。でも、その想像は可笑しなほどの現実感を伴っていて、おれは唇を舐める。

 おれは、どうすべきか。

 おれには、何ができるのか。



 踏切の音が近づいて来る。もう、あの場所までそうはない。雲が空を覆う真っ暗な夜の中で、おれはナミと買い物に行ったときに買った自分ひとりのためにはやや大きい深い紺色の傘の柄を何故だかぎゅっと強く握った。
カンカンカンと鳴る耳障りなはずの警戒音は、細かな雨粒がアスファルトを優しく叩く音と合わされば、何故か懐かしい響きになってしまっていた。

 その音を聞きながらおれはあいつの目立つ金色頭を認めると、足が忙しなく動いて、少しずつ歩く速度が上がっているのが分かった。

 そして目の前に立つと、言う。

「傘、ささねェのか?」

おれはあの日と同じように声をかけた。金髪の腕には緑色の傘と、おれがいつか強引に貸した、でもきっと差したこともないだろうビニール傘がかかっている。 でもおれはそれをちらと見ただけで、いつもなら踏み留まる一歩を踏み出して、ぐっと近づく。身長がさして変わらないおれたちの顔はぐっと接近して、あいつ の目の中におれが映っているのが見えるくらいだった。

 そしておれの傘は、申し分ない大きさで、がたいの良い男二人をきちんと雨から守ってくれた。

「なっ?」

目の前の男の顔は動揺したようで一瞬赤くなり、驚きのあまりか止まることのなかった涙が、ほんの数秒ではあるが、止まった。

「どうしたんだ、よ?」

「なんとなく」

おれはどう答えたら良いのか分からずに、そう答えた。本当になんとなく、なのだ。

 なんとなく、こいつが泣くのはもう我慢ならないと思った。なんとなく、ひとりで雨に濡れているのが許せなくなった。そして、おれがこいつに何ができるの か考えて、大したことなんてできないのだと気付いてしまったのだ。だからなんとなく、傘をさした。おれにできるのは、そんな小さなことくらいだから。だけ ど、それでもあわよくば泣き止めばいい。そう思った。

「なんとなく、って何だよ」

そう金髪は呆れたように言って、泣きながら笑った。その笑顔は、今までにないくらい柔らかい、綺麗な笑顔で、おれは何故か少しだけ泣きたくなった。

 男の着ているいつもびしょびしょだったスーツが、心なしか少し乾いてきたような気がした。そしてそいつは思い出したようにスーツの内ポケットから煙草を 取り出して、ゆっくりとくわえ、ジッポーで慣れた動作で火を付けた。 実体などないはずの金髪の、見覚えのないパッケージの煙草の匂いなんて分かるはずもないのに、その煙はどこか嗅ぎ慣れた匂いがし気がした。匂いなんてでて いるはずもないのに、だ。

「煙草、吸うのか?」

「そうみてェだな」

「なんか、思い出せたのか?」

「分かんねェ」

男のスーツはすっかり水分が飛んで、そして今度はその姿がゆっくり、ゆっくりと透明に近づいていく。

「ただ」

「ただ?」

おれは、うっすらと消えつつあるその綺麗な手とか、泣き笑った顔とかに目の奥がつんとした。

「ただおれはきっと、こうやって相合傘したかっただけなんだ。雨からくらいは、守ってやりたかったんだ」

男は輪郭のぼやけてきた顔で、でも確かに泣き笑いでなく笑っておれが分からない話をした。そりゃおれが言いたかったことだ。そう言ってやりたかったけど、声を出すことはできなかった。

「おれさ、もし次があったら今度はもっと早く気付くよ。それで、躊躇わずに傘、さしてやる。おれができることだったら、何だってしてやる」

そう言って消えかけた顔で綺麗に笑う。

「だから、ありが…」

そうして声は聞こえなくなった。唇が『ありがとう』と動く。そして、きっと気のせいだろうが、その唇が教えてもいないおれの名前を口ずさんだ気がした。

 青のビニール傘がぱたりと音をたてて落ちた。誰かの涙が一粒、ぽつりと落ちた。

 傘から顔を出せば、雨はいつの間にか止んでいて、星も月も白銀に輝いている。

 きっと明日、雨は降らない。

 涙雨も酒涙雨も、降ることはない。


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