いよいよ空は暗くなり、雲は今にもたっぷりと含んだ水分を吐き出してしまいそうだ。横目にちらりと見えた民家でもわたわたと洗濯物を取り込む様が伺え、
市の方でも店じまいを始めるところ、商品に雨よけをするところがぽつりぽつりと見える。その慌ただしい様子につられて、自然とおれの歩く速度も速くなる。
そんなおれの手には先程買ったばかりの真新しい緑色の傘が握られている。男二人で入っても大丈夫なくらい大きくて、おれの気に入っているゾロの髪の色と
同じ、出たばかりの新芽のような淡くて、柔らかい色をしているそれを意識して、そしてそれをゾロにさすところを想像して、おれは口を三日月型にしてにんま
りと笑う。あいつと相合傘をしたら、視界のすべてがあの毬藻カラーに包まれて、さぞ幸せな気分になるのだろう。その淡い色の内側で、春先の冷たい雨が地面
を打つのを、二人で、他人事みたいに見るのはさぞ気分がいいのだろう。
そう思っておれは、先程あいつと別れたあの場合へと急いだ。
しかしおれの期待とは裏腹に、たどり着いたベンチはもぬけの殻で、あいつがいた痕跡すら皆無だった。
おれの視線はベンチと、その後ろにどんと咲き誇る桜の木を何度も信じられない気持ちで行ったり来たりをする。おれの空間把握能力があの迷子毬藻と同程度か
それ以下で、尚且つ記憶能力もぽんこつ以外のなにものでもないという同情を禁じえない二重苦でない限りは、ここは先程の場所で正しいはずだ。いや、正し
い。では何故、十数分しか経っていないはずなのにゾロはいないのか。あいつはついに座ったまま道に迷うという救いようのない境地に至ってしまったのだろう
か。いや、さすがにないだろそれは。いやまて、あいつに限ってはまさか否定できない、のか?あの馬鹿には、有り得るのか?
そうふざけた思考に陥りつつも、おれは内心不安だった。嫌な予感がするのだ。傘を握る手も、暑くもないのに、むしろ肌寒いくらいなのにいつの間にかうっすらと汗をかいている。
普段だったら、そう、普段であれば、おれはまったく気にもしなかっただろう。またあの毬藻は喧嘩でも買ってやがるのかと苦々しく思って終わりだ。だけ
ど、今日のあいつが喧嘩を買うとも思えなかった。しかも、あいつはいつもの如く、戦闘による怪我で最近体調を崩しているのも知っている。怪我人扱いなんて
できないししないけれど、そんな素振りなんておれにすらちらとだって見せないけれど、実際は大怪我人なのを、知っている。
おれは唇を噛んだ。悠然として、何にも動じないとばかりに堂々と立つ桜の木にさえ、八つ当たりのように苛つき、おれは走りだした。
雲からは一粒、雨の雫が零れ落ちた。
街は雨でざわついついる。本降りになってきた雨が地面を打つ速いリズムで人々は忙しなく歩く。おかげで、きっと騒がしいところにあいつはいるはずだとあ
たりをつけるおれの思惑は上手くいかない。雨音と、足音と、広がる色とりどりの傘に邪魔されて、いつもならもっとたやすくできるはずなのに、今日に限って
上手くあいつを探し出すことができない。そんな状況にも、おれ自身にも苛々が募り、火を付けずにくわえていた煙草のフィルターを噛み潰した。
そうして、やっとのことたどり着いた路地裏は、まるでこの世の終わりみたいで、おれは動くことすら困難だった。
まず目に付くのは、人の山。死んでいるのかぴくりともしないのはまだいい。問題はむしろその予備軍で、呻いて、藻掻いて、手足をばたつかせる。その度
に、雨と血が混じりあった液体がぴちゃりと音を立てる。小さな音のはずなのに、雨音にも負けず、鼓膜を震わせて、響く。十数体の死体と、その一歩手前。
次は、赤く染まった桜の花弁が浮く、こちらも赤い水溜まり。雨はそのおびただしい量の血を流すことはできなかったようで、酸素に触れて変色した黒ずんだ赤を薄めて、その面積を広げさせるだけだった。
そして、ゾロ。真っ赤に染まった白い刀に縋るようにして、肩で息をしてやっと体を支えていた、血塗れの、ゾロ。
「…ぞ、ろ」
声が擦れた。
そしてやっとのこと一歩、踏み出したそのとき、急に首の裏側あたりに寒気がした。死に損ないの死体予備軍のうち一人が最後のあがきとばかりに銃を構えていたのが、視界の隅っこで、見えた。
「…っ」
足は勝手に動いた。
ぱんっと言う、笑ってしまうくらいに軽い音がして、そして何もかもが、遠くなった。
最後の記憶は曖昧だ。
どこか遠くで聞こえる、泣き出しそうなあいつの声。手に握った傘の感触。
おれは、血からも傷からも、ましてや馬鹿みたいに大きなあいつの夢からも、あいつを守ることはできなかったし、守るべきでなんかなかったし、あいつも守られることを許さなかったことを知っていた。
だけどあいつを少しでも支えるためにできることもあるんだ、そう知って買った大きめの傘。だけど開かれることはなかったそれの、感触だけが最後に残った。
雨に濡れることを厭わない君に
傘をさしてくれる人がどうか、どうかありますように
できるのならば、それが僕でありますように
そう、薄れゆく意識の中で、願った。
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