「サンジ君?」

ぼんやりと窓の外を眺めていれば、ふいに背後から声がかかった。あれ、ナミさんだ。そう思った瞬間に、ついつい眉を寄せてしまった。

 ナミさんだ?サンジは思う。今、おれは彼女と一緒にいるのに、一瞬そのことを忘れていた。その事実に、サンジはどうにも罪悪感を抱いた。いつも女性第 一、特にナミに対してはナミ最優先という意識が染みついているサンジにはまず有り得ないことだったからだ。

「どうしたの、ナミさん?」

振り返りつつ、笑顔を作る。作る、なんて表現をしたところで、サンジはナミと向き合えば自然と笑顔になる。そんな機能が付いているんじゃないかという錯覚 をするくらいなのだが。それでも一瞬浮かんだ険しい顔を消し去るために、そう考えてしまった。

 だけれどそんなサンジの心情とは裏腹に、視界に入ってきたナミは、読みかけだろう本から目を離して穏やかに微笑んでいた。サンジの初めて見る表情だっ た。くるりと丸くて、普段は強気そうな大きな瞳の目尻は柔らかく垂れている。唇は緩やかな弧を描いていた。まるで、聖母みたいだ。いつも、ナミに、または 美しい女性たちに贈る言葉を、サンジはそっと胸の内だけで呟いた。

「《どうしたの》はサンジ君よ」

そう言ったナミの顔はすっかりいつも通りの、少し意地悪そうに口角をきゅっと上げた笑顔だった。

「珍しいわね。ぼんやりしちゃって」

「あー、ごめんね」

「別に怒ってる訳じゃないのよ」

そう言ってナミは読みかけの本をテーブルへと置くと、サンジの、というよりはサンジがぼんやりと眺めていた窓へと近づいてきた。サンジは咄嗟に数歩ナミの 方へと移動していったが、そんなサンジのことをするりとしなやかな身のこなしでかわしてナミは窓際へと立った。きらきらと太陽の光が降り注ぐ、開け放たれ た窓からその身を乗り出して、ナミは眼下の浜辺を眺めている。

「何してんのかしらねえ。あの馬鹿は」

その視界に確実に入っただろう人物を思い、サンジは不穏なものを感じた。背後から誰かにじっとりと見られている様な、そんな心許無い感覚だ。サンジはジャ ケットの裾を無意識に指で弄った。

「ねえ、サンジ君」

ナミは窓の外に見える彼からちらとも視線を外さないでそう話しかけてきた。

「何?」

「あいつと喧嘩でもしたの?」

その言葉にサンジは、いきなり見たくもない現実を突きつけられた。




 はっきり言えば、今サンジの頭は彼のことでいっぱいだった。ナミと付き合いたてのほやほやで、本来だったら浮かれっぱなしでナミ一色の脳内であるはずな のに。そう思えば非常に不本意である。このおれの頭の中が野郎のことでいっぱいなんて。そんな頭を抱えたくなるような状況である。しかしだからと言ってそ れが改善される様子は見当たらなかった。むしろ考えれば考えるほど頭を占領してくる。つまり、打つ手なし、である。

 サンジにとって彼は、大切な親友であった。

 可笑しな位に自信過剰で、我儘で、人間としてそれってどうなのよという性格をしている彼であるが、サンジは彼が好きだった。初めて彼と出会ったとき、つ まり浜辺で彼を助けたときはそんな風に好意なんて欠片も持っていなかったのだが、その時点ですら何故だか初めて会った気がしなくて気になったのは事実だっ た。そして、暫く付き合ってみれば、クソ生意気だと思っていた彼は、意外や意外、少し素直に好意を向けてみれば照れたり、ナミと二人で会話に熱中していた らなんとなく寂しそうだったりと、こんな言い方をするのはそれこそ不本意であるが、なんだか可愛らしい面ももっていることが分かったのだ。しかも感情が顔 や態度に出づらいやつであるから、それを分かっているのがナミやサンジだけであると思うと何だかこそばゆい気分になるというものだ。まあ、基本はふてぶて しくて我儘なのだが。

 だが、そんな彼が何故だかは分からないけれど、泣いていたのである。もういい歳の男であるというのに、声を上げて。しかも自分の寝ている横で、だ。その 後はどうにも元気がないようであるし。そんな親友の様子を見てしまっては気にしない訳にはいかなかった。

「あいつ、泣いてたんですよ」

本当はナミには黙っておいた方がいいのではないだろうかと思っていた。だが、肝心のナミが彼の様子に気づいているのだったら隠しておいても無駄ではないの だろうか。そう思ってサンジはナミにそう言った。本当は、これ以上一人の力で考えるのが無理そうだと思っていたのもあるのだけれど。

「泣いてた!?」

ナミはその言葉にあからさまに驚いた。窓から乗り出していた華奢な身体がばっとサンジの方へと振り向く。細く整えられた眉が跳ね上がり、普段から大きい瞳 が更に見開かれてた。

「あいつが!?」

そうしてちらりとその視線が窓の外を見た。サンジも釣られてその視線の先を追った。

 そこには、浜辺にごろりと太平楽に寝そべる彼が見えた。両手を頭の後ろで組んで、ぼんやりと空を眺めるながら日向ぼっこでもしている様なその姿は、まさ に平和な午後とでも言った感じで、今話している議題とは全くもって不釣り合いだった。

「……あいつが」

しかし、サンジもナミも思わない訳ではなかった。確かにその姿だけ見たら太平楽だろうけれど、ならば何故、彼はここにいないのだろう、と。いつもだったら この部屋にあるはずの姿が、なんで浜辺にあるのだろうと。

「ねえ、サンジ君。もしもの話だけど……」





 ゾロは緊張していた。今日はついにサンジとナミとの結婚式だった。天気は生憎のどしゃぶりとなったが、幸せ絶頂だろうあの二人にはそんなこと関係ないだ ろう。

 あれから何度もゾロは、サンジの寝室へと忍び込んだけれど、とうとうあの人魚姫のナイフが血を浴びることはなかった。何度試してみても、どうしたってナ イフを握る右手はゾロの意思に反してサンジの心臓の上でぴたりと止まってしまうのだ。まるであの大嫌いなお伽話の大嫌いな人魚姫の呪いだ。王子をとうとう 殺すことができずに泡となって消えた彼女が、ナイフの装飾として乗り移っているのではないかと半ば本気で思った。勿論、現実逃避だとは流石に分かっている けれど。

 だがそんな日々はもうおしまいだった。

 今日、ゾロは死ぬだろう。お伽話のように泡となって消えるのか、発作でも起こした様に突然死を話すのか、どこからかやって来た不審者に斬り殺されるの か、それともまったく違った死にかたなのかそんなことは薄らとも予想が付かなかったが、結末としては結局一緒だ。明日は剣が振れない。空が見られない。息 はできないし、飯も食べられない。そして明日はもうサンジに会えない。

 そんなことをぼんやりと思いながらゾロは慣れない窮屈な服の裾をぎゅうと引っ張った。今日の為にとサンジとナミが、ゾロを着せ替え人形にしながら仕立て たスーツだった。身体の、特に腰のラインがはっきりと分かように作られた細身のスーツに、髪色に合わせたアッシュグリーンのネクタイ。

 自分たちの晴れ姿だろうに、まったく関係のないゾロのことをやけに楽しそうに採寸させて、デザインを考えて、細かい注文を付けていた。合わせるネクタイ はどうするか、カフスは、ハンカチは。そんなことを仲睦ましく二人で話していた。本当にあれにはうんざりだった。わざわざおれの前で仲良くすんなよと叫び たかった。そして、それ以上に何よりそんなことをされてしまったら、もう二人のことを怨めなかったからだ。そうでなかったら、きっと結婚式なんて来なかっ ただろう。

 そう思ってゾロは、スーツの裾を握ったのは逆の手に握った花束を確かめると、ゆっくりと目の前の扉を開けた。薄暗い廊下に眩しい光が洪水みたいに溢れて きて、あの世からのお迎えみたいだと冗談にもならないことを考えた。



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