ゾロは足音ひとつ、息の音ひとつしないように気をつけてベッドへと近づいて行った。ばくばくと体中から響いてくる心音だって、根性でどうにかなるものな ら止めてしまいたいくらいだ。本当は雨粒が屋根を叩く音が煩いくらいで、そんな風に用心する必要がないことは何となく分かっていたのだけれど、そう思わず にはいられなかった。

 サンジの眠るベッドは、窓際にあった。だから一歩近づくごとに雨の音は酷くなる。月明かりが差していたらサンジの顔が良く見えてきたかもしれない。だ が、幸か不幸か星のひとつだって姿を見せないような暗い夜だった。だから枕元に立ったときも、その金髪が光を反射することも、その顔をはっきりと認識する こともできなかった。ただ、人影らしきものがぼんやりと分かるだけだ。

 ゾロは自分が何をしようとしているのか特に意識することなく、そうっと、本当にそうっと、壊れやすい高価なガラス細工でも触るようにサンジの頬らしきと ころに当たりを付けて触れた。そうしてその手をまたそっと動かして、瞼の淵をなぞる。何故そんなことをしたのか本人も良く分かっていなかったが、体が勝手 に動いたのだ。

 眠っているからなのか、それとも普段からなのか分からないが、少しばかり低い体温だった。でも、確かに生きている温度だ。そう思ってしまい、我に返っ た。慌てて手を離す。小さく舌打ちをして、首を振る。自分が今まさにしてしまったことに後悔をした。情が移るようなことをしてどうするというのだ。

 ゾロはすうっと短く息を吸った。おれは死にたくない。まだ死ねない。やっと剣だって振れるようになったのだ。今、まさに楽しくなってきたところなのだ。そして《これ》は自分が死んでも良いほどの価値があるわけじゃあない。そうだろう?そうに決まってるだろ?

 そう思って、ナイフを振りかざした。心臓の真上に狙いを定める。この距離で外すはずなどなかった。





 感情などまるでなくナイフは空気を切り裂いた。

 ナイフが人体を咲く不愉快な鈍い音が部屋の壁まで辿り着き、乱反射してゾロを囲んだ。骨を断つ感触、肉を断つ感触、そして血飛沫が派手に舞い顔にも手に も生温かい、先程と同じ温度の何かが纏わりつく感触、そんなものがゾロの五感に伝わった。血の嗅ぎ慣れた鉄くさいにおいが辺りに広がる。そんな気がした。

 そう。確かにそんな気がしたのだ。が、それも一瞬だけだった。

 鋭く空を切ったナイフはサンジの心臓の真上で、サンジをまったく傷つけることなく、まるでそこに留まるものだと言わんばかりに静止していた。

「っく……」

もう一度ナイフを振り上げる。だが、視界の隅にサンジの金色であるはずの髪が目に入った瞬間、今度はそれを振り下ろす勇気さえなくなって、ゾロは固まっ た。どうしても、腕が思ったように動かないのだ。今まで刀を持っていたときは一度たりともこんなことはなかったのに、腕が情けなくふるふると震えた。

「うぅ……」

どうしてこんなことさえできないんだ。そんな思いでいっぱいになる。どうして、ただ腕を振り下ろすというそれだけの行為ができない?どうしておれの腕はお れの意思通りに動いてくれない?どうしてあいつの顔から目が離せない?どうして。どうして。どうしてっ。おれにとって、ほんの少しの価値しかなかったはず なのに。それなのに、どうしてっ。

 そんな風に混乱している最中でも、ゾロの無駄に感度の良い耳は水音を拾っていた。ぱたりっ。そんな風に雨が何かを、きっと屋根を叩く音がやたらと近くでした。ゾロは混乱して熱くなった頭の片隅で酷く冷静に、雨漏りしてやがる、と他人事みたいに考えた。

 ぱたりっ。ぱたっぽたっ。うぇっ。ぱたぱたっ。っひ。

 あァ、違う違う。誰か泣いてやがんのか。なんか情けない声がしやがる。そう気付いた瞬間に、ゾロの頬をつうっと水が伝うのが分かった。

「うえ?……うぁっ。……ひっ」

 泣いているのは、他でもないゾロ自身だった。

そうだと分かった途端、ゾロはいきなり息苦しくて、辛くて仕方なくなった。何故今まで気が付かなかったのかが不思議なくらいだ。涙腺が緩むどころではなく て、まるで何かが壊れてしまったかのようにぼろぼろと涙が零れ落ちて、シーツに、サンジの腕に、至る所に水滴が落ちている。餓鬼みたいでみっともない。そ う思って唇を噛み締めようが、ナイフを握る手にさらに力を込めようがどうにも止まらない。

「うぅ……うぇ」

ほんとうは、嘘だった。大した価値なんてないなんて、言い訳だった。ゾロの知らない間に、いつの間にか嘘になってしまっていた。サンジの空みたいな外見が 好きだった。サンジの空みたいな無遠慮な気まぐれさが好きだった。空みたいに、ちっぽけな魚一匹になど左右されない、無関心な優しさが好きだった。大好き だった。

「         」

気が付けばゾロは、ナイフを下してベッド脇に蹲っていた。ぎゅっと膝を抱えて、本当に子供のようだった。だけど気にしている余裕などない。口は何度も何度 も何度も、サンジの名を呼ぶ形をなぞるけれども、音になるのは情けない嗚咽ばかりで、ゾロは悔しかった。もどかしくて仕方がなかった。

 もしも、気持ちを伝えられたら、何かが変わったのだろうか。名前を呼ぶことができたなら、名前を教えて呼ばせることができたのなら、何かが変わったのだろうか。例えサンジとどうにかなどなれなくても、こんな風に情けなく泣くことなどなかったのだろうか。

 初めてゾロは、言葉を失うことの重大さに気が付いた。だって、伝える方法はゾロには何も残っていないのだ。態度で示す方法だって良く分かっていなかっ た。今までは、勝手に周りが好きになってくれたのだ。今さら自分から好意を示す方法なんてよく分からなかった。どうしていいのか分からなかった。

 負け犬みてェだ。そう思ったけど、ゾロはどうしたって泣くことを止めることができなかった。ただただ、サンジの名前をなぞり続けた。






 真夜中にサンジは、何か物音がして目を覚ました。最初は雨の音かと思ったが、すすり泣くような音がそれに紛れて聞こえてくる。そんな気がする。

 嫌だなあ、とサンジは思った。背筋に何か嫌な感じのものが走る。冷や汗がでる。古い屋敷に怖い話なんかは付きものである。幼いころはサンジとて怖くて、文句を言われながらもゼフのベッドに潜り込んでいったものだった。

 その発想なのか、何故なのか、隣の彼の部屋に行こうかと一瞬思ってしまった自分に嫌気がさした。どうせ妄想の世界なんだ。そこはナミさんだろう。自分自 身にそうつっこむ。第一夜中にあいつの部屋になんか行ったら絶対馬鹿にされる。あの小憎たらしい顔でふんと鼻で笑われるに決まっている。

 と、そんなことを考えるも、背筋の嫌な感じも冷や汗も消えない。仕方ないからとにかく明りでも付けるかと体を起しかけたそのときだった。ベッド脇に彼がいるのが目に入った。

 既に暗順応した目であるとは言え、どうして一目で彼だと分かったのかは謎だったが、とにかく彼だと分かったのだ。安心からなのか、思わずため息が漏れる。

「んだ、てめェかよ」

そう言えば、彼は驚いたようにびくりと肩を震わせて顔を上げた。あまりにも普段のふてぶてしい彼らしくないその仕草に驚くも、上げた顔で更に驚いた。

 嗚咽は彼のものだった。間違いだと思いたかったが、気のせいなんかではなかった。暗かったから顔は良く見えなかったが、眉がはの字になり、眉尻も下がっ ていた。その顔にサンジはどうとも言えない苦い気分になり、彼の腕を掴んだ。直ぐに乱暴に振りほどかれたが、濡れていてやはり泣いていたんだと分かってし まった。

「おい、どうしたんだよ」

彼はそれに答えなかった。答えられなかったのだ。蹲る彼と目が合って、サンジは確かにそうなのだと思った。彼は、確かに何かを言いたがっていたと思うのだ。だが、それを確かめる術というのをサンジは持ち合わせていなかった。

「   」

彼はとても大切なことのように、何かを言った。勿論声は出ていないが、確かに何かを言っていた。それが何なのか気になったが、どうすることもできなかった。

 そんな風に惑っているうちに彼はサンジにふいと背を向けると部屋から出ていった。まるで本物の幽霊みたいで、サンジはゾロを追いかけることができなかった。



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