人魚姫8
開けたドアから光が溢れた。ゾロは何も見たくなくてぎゅうっと目を瞑って一歩を踏み出す。瞼を透かして感じるぼんやりとした曖昧な白い光と、屋根を叩く不規則な雨の音が感覚の全てになった。それは海面へと向かって泳ぐ感覚に、よく似ていた。
一度深呼吸をする。目を開けたら息苦しい現実が待っている。サンジはきっと幸福そうに笑っているだろう。ナミはいつも通り生意気そうに笑って、それでも
きっと真っ白いドレスを身に纏った彼女は嫌になるくらい綺麗なのだろう。そしてそれをゾロと同じ参列者たちは、眩しいものを見る様に目を細めて眺めている
のだろう。
つん、と鼻の奥が痛くなった。それでもゾロは、目を開けた。
目の前にいたのは、ゾロが何度だってこの日までに想像した、たくさんの観衆、純白のドレスのナミ、そしてタキシード姿の幸せそうなサンジ。そんなもので
は全くなかった。目の前にいたのは、深い緑色の光沢ある素材のワンピースを着たナミと、こちらは想像通りに白いタキシードを着たサンジだった。
「……っ?」
思わず状況が飲み込めずに二人をまじまじと見れば、ナミがふっと悪戯が成功したように意地悪そうに笑って見せた。状況が飲み込めずにフリーズするゾロの元
へ、いつも以上に高いヒールを軽快に鳴らして近づく。そして、ゾロのすぐ目の前に立つと、その右腕、花束を握り締めている手をとった。
「それ、頂戴?」
そう言って、ゾロが握りしめていたブーケをそっとその手から奪い取ると、素早くゾロの頬へとキスをした。
「頑張りなさいよ」
そう言うとナミは、くすくすと楽しそうに笑いながら軽やかに足音をたてながら去って行った。
その姿を見送って、まだ状況が飲み込めないゾロがサンジを見やれば、サンジは困ったように口をひん曲げて笑っていた。
「もし、あいつがサンジ君を好きだったらどうする?」
ナミが仮定の話よと言って続いたのは、そんな言葉だった。ナミに、彼が泣いていたと打ち明けた日のことだった。
サンジはその話題の唐突さに、ナミの前だというのに、思わずそれまでのシリアスな空気を吹き飛ばすような間抜けな顔で、間抜けな「ふあ?」とも「へあ?」ともつかない声を出した。それほどまでに想像すらしたことのないようなことだったのだ。
「だーかーら」
「いやいやいやいや、それはないって」
やっとフリーズ状態から少し回復したサンジは、思わずナミの言葉を遮った。右手を顔の前でぶんぶんと勢いよく振る。一体全体どうしてそんな発想になるのだろうか。サンジは男であるし、彼だって紛れもなく男だ。
だがナミは、そんなサンジの心情は予測済みだと言わんばかりに、先手を打ってきた。
「だってあいつ、泣いてたんでしょ?」
「いや……それは、ナミさんが……」
そう言ったとき、ふとサンジは彼が泣きながら何かを呟いていた光景を思い出した。顔中を涙でべたべたにして、何かを必死に呟いていた。口がどう動いていた
のかだって思い出せる。そう口がどう動いていたのかだって、思い出せるのだ。そういえばあれは、どこかで絶対に見たことのある形だった。あれはどこで見た
んだろうか?いや、かなり覚えがあるはずだから結構聞いたことのある単語なのだろうけれど。そう必死で考え始めれば、ナミが訝しげに声をかけてきた。
「サンジ君?」
その口の動きを見て、サンジは一瞬で回答が分かって、頬がかあっと赤くなるのを感じた。
記憶の中の彼が、出せないはずの声で「サンジ」と自分のことを確かに呼んでいた。
「で、でも、おれ、ナミさんのことが……」
放心状態から我に返ったサンジはそうぽつりと言った。
例えば、彼が自分のことを好きだったとして、それが気持ち悪いとは思えない程度にはサンジは彼に好意を持っていた。そこからお付き合いするとかは全く別
にして、好意をもたれていたことに純粋に嬉しいと思えた。だけど、それとこれとは全く話が別なのだ。彼のことは友人として確かに好きだ。ナミと比べたって
優劣がつかないくらいには。でもナミを好きなことも、確かな事実なのだ。
「ねえ、サンジ君。本当にいいの?」
ナミが言う。あのとき、サンジが告白したときと同じ言葉だった。あのときも、もしかしてこういった意味で聞いていてくれていたんだろうか。そうサンジは頭の中で考える。
「私と結婚したら、多分三人仲良く、ってわけにはいかない」
サンジははっと顔を上げた。
「それでも、いいの?」
「なあ、おれ」
そう言ってサンジは彼に話しかけた。
目の前の唖然とした様子で立ちつくす彼は、それでも悔しいくらいに男前だった。ナミと二人で見立てたスーツは、体にぴったりとあっていてスタイルが良い
のを強調する。サンジとて手足は長くスマートと評判で人から羨ましがられるのだが、彼のそれはまた違った綺麗さだった。剣を扱うからなのか、胸や肩に綺麗
に筋肉が付いているのだが、そこから一転して細い腰へと続いていく。所謂逆三角というやつだろうか。それを、ウエストラインが絞られたスーツで強調される
のだ。そして柔らかい緑のタイが、涼しげな、一見すると冷たくて鋭い彼の印象を和らげていた。
あァ、流石ナミさん。流石おれ。思わず自分たちの見立てにうっとりする。
だが、そんな自己陶酔も、彼の明らかに納得のいっていなさそうな眉間の皺を見て一旦押し流される。そうだ。まだ目の前の彼には何も説明してないんだから。
「てめェに聞きたいことがある」
彼は相変わらずきょとんとした顔をしていた。
サンジは、そんな彼の顔をじっと見据えて言った。
「でもそれより先に言いたいことがあんだ」
そう言って深呼吸をする。心臓がばくばくとうるさくなるのが分かって、自分が緊張していることを嫌でも感じた。
「おれはナミさんが好きだ」
彼が緊張した面持ちで、こちらを見ていた。こんなときなのに今日のこいつは格好良いなと、どこかぼんやりと思ってしまう。
「でも、もしそれでてめェがどっかいっちまったり、口きいてくれなくなるのは、嫌なんだ」
「おれは、恋人としてのナミさんより、親友としてのてめェの方が大事なんだ」
「んでそれを踏まえて聞きたいんだけど……お前、おれのこと、好き?」
そう伝えたら、そのときの彼の顔は、少し見物だった。最初は何を言われているのか分からないのか、いつもへの字型にきっちりと閉じられている唇がぽかんと
緩む。次に、頬が真っ赤に染まった。そして最後に、まったく似合わない大粒の涙がぼろぼろと零れて、こっくりこっくり何度も頷いた。その様子があんまりに
も普段の涼しいポーカーフェイスの彼と似合わないものだから、思わずサンジは笑ってしまった。
ぽちゃん、と微かな音がして、それは波の間に消えていった。ゆらゆらと揺れて、きっとそれは海の底まで運ばれるだろう。もう見ることもないと思うと、あれだけ嫌な思い出が詰まっているにも関わらず少しだけ寂しい気分にもなった。
装飾の人魚姫が前ほど嫌いじゃなくなった。それはきっと彼女の気持ちが、分かりたくもなかったけれど、分かってしまったからだろう。王子をどうしても殺せ
なかった弱い彼女の強い気持ちが。彼女のように、泡のようにはなれなかったし、そんなに純情でもないのだけれど。
ただその代わり、今はやっと立てたスタート地点から頑張ろうとゾロは思った。泡にならなかった代わりに、彼女にはなかった、伝えるという勇気をふるうのだ。
だから、これは決意。
おもちゃみたいに脆いナイフは、海水にやられてすっかり錆付いてしまうだろう。だから、もう人魚姫が血を浴びる日がやってくることは決してない。
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