「おいっ」
靄がかった意識の中で、ゾロは何かが頬にぺしぺしと当たっているのを感じた。それからどうにも逃れたくて、顔を軽く左右に振る。まだまだ眠たかった。しか
しその感触というのは中々に執拗で、いくらそうしようと途切れそうにない。ゾロはうざったいなァと思うものの、いつもの如くの強烈な眠気には勝つことがで
きず、強引に無視をし続けた。
それがどれくらい経っただろうか。夢現だから良く分からないが、ゾロは最早根比べとなりつつある頬に当たる感触が、誰かが自分を起こそうと頬を叩くもの
だと唐突に気が付いて、瞬間、かっとなって怒鳴りつけようとした。
「……っ」
「お、目ェ覚めたか」
が、声が上手く出ない上に、目の前には、想定していなかったきらきら光る空と世界、それにその光を受けてこれまたきらきら光る金色の髪があって、ゾロは目
をぱちくりと瞬かせた。寝ぼけた頭では一瞬どころか一分くらいは状況が上手く掴めず、結果、最近その幻影が頭の中にちらついて仕方がなかった空色の瞳と、
図らずも見つめ合う結果となってしまった。
「おい、大丈夫かよ」
そのゾロの呆けた様子をどう思ったのか、目の前の男はそう訊ねてきた。
「……っ」
『大丈夫に決まってんだろ』。そう言おうとしたが、声がまったく出ない。思わずゾロは喉に手を当てた。もう一度、今度はゆっくり声を出そうとするも、
ちょっとの音だって出ないし、喉自体が第一振動しない。そこまで来て、ゾロはやっとのことこの現実味の薄い状況を把握してきて、恐る恐る寝そべっていた身
体をゆっくりとひねって、自らの尾ヒレ、だった場所を見た。
そこには、当然の様な顔をして、何も身に付けていない足があった。手の指のように五本に別れた指があり、ぽこりと付きだした踝があり、つるりとした、で
も筋肉の付いたふくらはぎ、太ももへと続く。どうなっているのか実感が湧かず、不可思議な気分でそっと触れてみれば、至極当然の話だが自らの掌の温かさを
感じて、びくりと驚く。
そんな、男を全く無視したゾロの様子にどう思ったのか男はぽいとゾロに掛かるように上着を放ると、もっていた煙草に火を付けた。
「おい、てめェ。助けてやったのに礼のひとつもないどころか、無視してくれるたァいい度胸だな」
ひょこり、とやっとゾロが男の方へと顔を上げれば不機嫌そうでシニカルな角度に曲げられた眉と口が目に入った。それを見て、こんな顔をおれの目の前で遠慮
なく晒す奴なんて珍しいなァと悠長なことを考えていたら、いきなり煙草の煙を顔に吹きかけられた。生まれてこの方初めての、煙たい不愉快なそれにゾロは思
わずけほこほと咳き込み、その辛さと目に染みる煙に涙目になる。あまりの辛さに、その目のままぎっと眉間に力を入れてほぼ真上にある男の顔を睨みつけれ
ば、条件反射のように相手もにらみ返してくる。ゾロはそんな相手の態度が腹立たしい一方で、心のどこかではその態度がひどく新鮮でもあった。彼に突っか
かってくる者など今までは一人としたっていなかったのだ。
互いに只ならぬ殺気を放ちながら睨みあって数秒。先に目を逸らしたのは、男の方だった。煙草を銜えた口を不機嫌そうにひん曲げて、視線を海の方へとや
る。
「ったく。何でこんな奴助けちまったんだか。大体おれは野郎は嫌いなんだよ」
そう紫煙を吐きながらの言い草が本当に心から面倒くさそうだったものだから、お世辞にも気の長いと言えないゾロとしては頭に来た。助けて欲しいなんて
ちょっとだって言った覚えもない。取りあえずこの見下ろされる姿勢が気に食わない。そう思って体を起こそうとした。が、腕を付いて頭を少し起こした時点で
くらりと来て、派手な音を立てて再び砂浜に頭を埋める羽目になった。
「……何やってんだよ」
そう明らかにため息交じりに言われてゾロは耳を赤くした。こんな明らかな失態は随分と久しぶりだった気がして、更に男のその口調が羞恥心を増長させた。だ
が一方で男は、その口調とは裏腹に先ほど放った上着を丁寧にゾロにかけ直すと、ゆっくりとゾロの体を支えながら起こした。
意味が分かんねェ。面倒くさいんじゃねェのかよ。そう思わず呆けた表情をしてしまったら、今度は男の方が決まり悪そうな顔をする。
「おれも溺れかけてたのを助けてもらったんだよ。可愛らしいレディにな」
だから、なんとなく放っとけねェ。そう言って今度は、拗ねたような、あるいは少し照れたようにも見えるのだが、そんな風に唇をひん曲げた。
怒って睨んで、皮肉気になったと思ったら、呆れて、拗ねて。ゾロとは違って随分とくるくる表情も感情も変わるようである。外見だけじゃなくて、こいつ自
身も空みたいなんだな。昨晩の荒れ狂った空や、不機嫌に雲を垂らした空、穏やかな晴れた空なんかを思い浮かべながら、そうゾロは思った。
ゾロは結局、その男、サンジの屋敷に連れて帰られることになった。ゾロが何も話せず、そのときはろくに歩けもしなかったから、存外にお人好しらしいその
男は放っておけなかったのだろうとゾロは想像する。またサンジはお伽話とは当然違ってどこかの王子何かではなかったが、大きな家の一人息子らしく、その家
は馬鹿に大きかったのも一因ではないかと思う。普段は使っていない客室が何部屋もあるのだ。現に、ゾロの他にも《溺れたサンジを助けた女》というのもサン
ジの屋敷に滞在していた。
「ナーミすわぁーん」
そして今日も今日とて、サンジはその女の尻を追い回していた。しかも何故か、ゾロにと貸してくれた部屋で。
その部屋は、空と海が見える大きな窓の付いた部屋だった。窓際には歩けなかったゾロの為に車椅子まで置いてある(二、三日したら不安定な足というものに
もどうにか慣れて必要がなくなったが)。そして窓際に配置されたデスクには、海辺で見つかったときにそれだけは抱えていたらしい、本と刀が置いてある。ゾ
ロにとってはそれだけで随分と過ごしやすい部屋だった。こんな甘ったるい声さえしなければ。
「ありがとう、サンジ君」
サンジの差し出した、本人が淹れたのであろう輪切りのレモンを添えた冷えた紅茶の入ったグラスを受け取ってその女、ナミはにこりと笑った。その顔は、自分
の魅力をきちんと分かっていて、それを有効に使っている笑みだとゾロには自分のことのように直ぐに分かった。案の定サンジはめろりんと可笑しな効果音が付
きそうな様子でゾロは面白くない。サンジがゾロに渡したのがナミとは違って飾り気のない紅茶だというのも、ストレートで飲むのがゾロは好きだったが、それ
にしても面白くない。何より、ゾロがじっとサンジの目を覗き込んで見たところで、ナミのように自分が最も魅力的に見えるはずの満面の笑みを浮かべてみたと
ころで、サンジは普通の、例えば友人に笑みを返すみたいな反応しかしないのが面白くなかった。今までそんな奴は男でも女でもいなかったのに。
そんな風に、ぼんやりと仲間はずれな感じで談笑する二人を見ていたら、サンジがふとその様子に気付いたのか声をかけてくる。
「ん、てめェどうしたよ。暇なのか」
それに対してふるふると顔を横に振る。そうする以外にゾロはどうしたら良いのか分からなかったのだ。伝える術というのは置いてきてしまったのだから。
「あァ、そう。じゃあおれ、これから夕飯作っから手伝えよ」
この家というのは立派な家であり、手伝いの者も何人もいるにも拘らず、料理人だけは存在しない。サンジも、現当主である彼の祖父のゼフも、それだけは自分
でやってしまうのだ。しかもそんじょそこらの料理人なんかでは歯が立たない程彼らの料理というのは美味い。
ゾロは眉を寄せる。イエス、ノーは当然首を振るだけで伝わるはずだし、今まではきちんと伝わっていた。嫌がらせなのか。そんな風に思っていたら、サンジ
がナミに対するのとは全く違った皮肉げな笑みで言う。
「暇なんだろ、てめェは。いいから手伝え」
ナミさーん、お夕飯は何が良い?そうね、今日は何か魚料理が食べたい気分かしら。デザートにはオレンジを出してもらえる?そんな大変に牧歌的な会話を
BGMに、ゾロはサンジにずりずりと引きずられていった。未だ自由自在には動かない足を、ゾロは口惜しく思った。
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