「なァ、ロビン。いいだろ?」
ゾロの甘えるような声が自らの図書室に響いて、ロビンはひっそりと眉を寄せた。目線は読みかけの本から少しも離すことなく考える。絶対にゾロの為にはなら
ないとは理解している。良い結果は確実に導かれない。リスクが大きい割に、得るものは少な過ぎる。ほとんどないと言ったって差し支えないくらいに。
それでも願いを叶えてあげたい、と思わせるものがゾロには、その声にはあった。本人は全く信じていないようではあったが、遠い昔、ロビンの祖先がかけた《魅惑》の魔法はやはり健在のようだった。
ロビンはそう、手元の本にちらりと視線をやって思った。先ほどまで興味深く読んでいたはずなのに、今ではそこにある文字の羅列の意味すら上手く掴むことができない。視線は紙の上で行ったり来たりを繰り返すばかりだった。
あの男を助けてからというもの、ゾロの頭には頻繁に金の頭と空色の瞳とがよぎるようになってしまった。まるで欲しくて堪らないものができたときのよう
だ。ゾロにはこういったことが極稀に起こる。発作みたいに突如としてそのことが頭から離れなくなるのだ。多分、何か、を日々探しているのだと思う。何か、
自分を満足させるものを。退屈から抜け出させてくれるものを。
でも、やっとそう言ったものを見つけたときも、大抵ゾロは手に入れたらすぐに飽きてしまう、というか自分が欲しかったものではなかったと気付いてしまう。
だがそれでもゾロは、欲しいものができたときには我慢するようにはできていなかったし、手に入れられないものがあることもほとんどなかった。例えそれが
どんな高価な刀であっても、どんな偏屈な人物であっても(刀は表向きには振うことは許されてはいないが)。頼み込んで手に入れられなかったものは忌々しい
ことに騎士団の資格くらいである。
だからゾロは今回も自信があった。ロビンは確かに理性的であるけれど、ゾロにはとことん甘くする一人でもあった。だから多分頼み込めば自分の願いを聞いてくれる、と。
「なァ、できんだろ、おれを人間にするくらい。簡単に」
ロビンは渋い顔をしていた。その顔をみてゾロは、ロビンはやはりそういう魔法が使えるのだと確信する。そしてそれを使うかどうかを既に迷い始めていることも。できないし、使うつもりも一切ないのなら悩むこともないだろう。ちょろい。そう思った。
「……知っているとは思うけれど、魔法というのは代償付きまとうものよ?」
「あァ、知ってる」
ゾロはじっと、ロビンの目を見た。ロビンの目が動揺したように小刻みに揺れる。あとひと押しだと思った。
「でも、どうしてもあいつに会いたいんだよ」
かなり大袈裟に言う。でも、興味本位なんて言ったらロビンは願いを聞き入れてくれないことはよくよく分かっていた。だからなるべく真剣そうに。目は決して
逸らさない。ゾロは自分の声と、そしてこういう風にじっと見たときの目が、他人の心を大いに揺さぶることをよくよく理解していた。
一秒、二秒と膠着状態が続く。ロビンは先程までの動揺を振り払うように、一度目を瞑ってゆっくりと開いた。それからはじっと視線を逸らさないように温度
の無い瞳でゾロの目を見てくる。傍から見たら睨み合っているように見えるくらいに互いの視線は容赦がない。どちらも決して負ける気などないようだった。
が、それでも先に折れたのは当然のようにロビンだった。二、三度軽く瞬きをして、ふっと溜息を吐く。
「仕方ないわね」
「恩にきるっ、ロビン」
満面の笑みを浮かべてそう言えば、ロビンは困ったように口角を上げる。これがもっと年若い女であれば呆けたように頬でも染めたところだろうことをゾロはや
はり分かっていた。それでもロビンは一度深呼吸をして気分を切り替えると、完璧な《仕事》の顔になった。魔女の顔、とも言うかもしれない。
「代償にはその声を頂くわ。それと引き換えにヒレを人間の足に変える」
「あァ。そんなんでいいのか」
ゾロは肩透かしを食らったような気分だった。お伽話の人魚姫は恐ろしいくらいに美しい歌声を持っていた。だから代償は《声》で十分だったと分かる。だから
ゾロは、自分は刀を握る腕でも差し出せと言われるのかと思っていたのだ。勿論、どうにか他の代償に変えてもらう気満々だったのだが。
だがロビンは、そんなゾロを見てある種憐れむように、例えば無邪気な幼子の無知を憐れむように淡く苦笑した。
「言葉はとても大切なものなのよ。分かっていないかもしれないけれど。それにあなたにかかった《魅惑》の魔法というのは、声にかかっている。だからそれで十分。お伽話の人魚姫よりもちゃんとした足があげられるくらいだわ」
「《魅惑》の魔法?そんなのあり得る話じゃねェだろ」
ゾロは首を傾げながらそう言う。そんなことは心からあり得ないとしか思えないのだ。しかしロビンはその様子を見て逆に不思議そうに瞬きをした。
「そう言えばずっと疑問だったのだけれど、あなたはどうして《魅惑》の魔法だけは信じようとしないの?」
ゾロは腕を組んで視線を彷徨わせた。確かに、きちんと言葉にしようとするとどうしてか、イメージがその形を絶えず変えながら浮かぶ雲のように固まらない。
雲。雲のように、か。そう言えばあの雲を掌で捕まえようとしたらどうなるのだろうか。ふわふわと霧散して、消えて行ってしまうのだろうか。
一瞬そう言った方向に思考が行きかけたが、ロビンの今や好奇心で満たされた瞳に意識を戻されて、ゾロは言葉をどうにかまとめ上げた。
「てめェも言ってただろうが。魔法には代償が必要、だろ?そんなでっかい代償どうやって払うんだ」
「……なるほど、ね」
ロビンはそう言って、ちょっとだけ口角を上げた。その様子がどうも何かを企んでいるような嫌な感じで、ゾロはすっと目を細める。ロビンのことは好意的には
感じていたが、どうにも読みきれない節があって、そこだけはいつもどうにも言えない気持ち悪さがあった。自分の思った通りにいかない数少ないことだからか
もしれない。
だがロビンはそんなゾロの様子など知らんぷりで、目の前まで辞書ほどの厚さのある本を一つ投げて飛ばしてこさせた。ゆっくりと水をかき分けながら本はロ
ビンの手元までやって来る。お得意の、手を咲かせる魔法である。ゾロの危機察知能力は毎度のことながら、突然起こるそれに一瞬体中の毛を逆立たせた。
ロビンは手にした本を確かめるようにそっと撫でた。本は真っ赤な表紙に金色の、ゾロが読めない文字が躍っていた。多分ロビンは読めるのだろうなと他愛もないことを考えていたら、予想外にそれをすっと渡された。
「どうぞ」
「あァ?」
ゾロは思わず受け取ったが、戸惑った。こんな異国語を読めないのは分かっているだろう。というかそんなものが読めるのはロビンくらいだということだって分
かりそうなものだが。そう思ってとりあえずその本を開いてみれば、予想していた感触とは何かが違う。最も簡単に言うならば、単純に硬い。それでも開けよう
と足掻いてみれば、ぱこっと軽い音がして中から大小の気泡が漏れ出した。
「……」
それは見かけのように本なんかではなく、本を模した小物入れであった。小物入れといっても辞書サイズの本である。中身の容量はその言葉には相応しくない程度には大きいのだが。
そしてその中には、薄緑色の如何にも怪しい液体の入った試験管と、柄に美しい人魚の装飾が施されたナイフが入っていた。
「使い方は分かるでしょう」
お伽話は嫌になるくらい聞いたはずだものね。そうロビンは眉尻を下げたまま笑う。
だがゾロはそんなものは目に入っていなかった。緑色の、丁度ゾロの髪の色と同じ色をした液体を魅入られたように見ていた。そして本の中にきっちりとナイフだけを仕舞いこむ。本が開いてしまわないか手早く確認する。
「もしもその会いたい人が結婚してしまうようなら、あなたは死ぬわ」
お伽話と同じよ。そうロビンは、最後の警告とばかりに目を伏せながらどこか弱弱しく言った。仕事の顔はどうやら剥がれ落ちつつあるようだ。だがゾロはそんなロビンに対して不敵にニヤリと笑ってみせた。
「おれに落とせねェ奴なんていねェよ。そうだろ?」
そう言って一気に試験管の中身を煽った。
やけに甘い液体が喉を通ったと思った瞬間には鋭い痛みが体中を、特にヒレのあたりを廻って来た。思いの外強い痛みで、ゾロは思わず置く場を噛みしめる。ぎりりっと言う音が頭に響く。それでも足りず眉間にしわを寄せ、目を強く閉じた。
だからゾロは見ることがなかったのだ。ゾロの言葉を聞いたロビンがその顔にどんな表情を浮かべたのかを。
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