泡のようにはなれなくて
昔々あるところに、それはそれは美しい人魚がおりました。薔薇の花のように透き通った肌に珊瑚の様な色の頬と唇をもつ人魚です。そして彼女はさらに、誰もが羨むような澄んだ歌声を持っていました。その美しさと歌声に海底中の全ての生き物が彼女に夢中でありました。
ただ、ひとつ言うべきことがあるとすれば彼女は多くの生き物に愛でられ、慕われましたが、彼女が望む意味で愛された訳ではありませんでした。
だからでしょうか。とても不幸なことに、彼女が恋をしたのは人間の王子様でした。
恋焦がれるあまり彼女はその美しい歌声と引き換えに人間の姿を手に入れます。しかも王子様が他の娘と結婚すれば死んでしまうという約束で、です。彼女はそれでも王子様に会いたかったのです。
しかしその恋はとうとう叶うことはありませんでした。彼女は幾千もの海の泡になって消えてしまいました。
彼女の母親は大いに悲しみました。そして、大いなる犠牲を払ってその血の中に魔法をかけたのです。
彼女と同じ血が流れるものは、海のものに絶対に愛される《魅惑》の魔法を。
彼女は考えたのです。人間になど目に向ける暇もないほどに、この海の中の生き物たちに愛されれば同じ過ちは起こらないのではないか、と。もう二度と、自分の子供や孫や、見ることもないその子供たちが人間になど恋をしないのではないか、と。
「人魚姫、ねェ」
ゾロは思わず欠伸をしてそう呟いた。そのお伽話というのは幾度となく、しつこいくらいに耳元で繰り返されてきたものだった。そりゃあ欠伸のひとつだってし
たくもなるだろう。しかし、隣にいた長い髪をした女はその如何にも興味のない様子が気に食わなかったらしい。ぷくりと可愛らしく頬を膨らませた。その分か
りやすい媚を含んだ仕草に、ゾロは無意識に口元を歪めた。
「もう、聞いてるの?」
「……あァ」
「もう。この話、ロロノア君のことなんでしょう?」
「お伽話だろ、そんなの」
ゾロはあからさまな溜息と同時にそう言葉を吐きだした。それと同時に腰掛けていた岩からも、隣にいた女からも、ヒレを乱暴に動かすことで離れる。女の方に強い水流がいって、綺麗に整えられていた髪が乱れたけれど、そんなことは全く気にならない。とにかく散々だった。
確かに、ゾロはお伽話となった人魚姫の血を引いていると言われていた。それによって持て囃されてもいた。非常に馬鹿馬鹿しいことに。だが、ゾロはそんな
ことちっとも信じてはいなかったし、もしその血が流れているとしたって面倒だとしか思えなかった。確かに容姿は整っていると言われる。整っているどころで
はなく、男だというのに美しいと称されることだって少なくない。生意気だとゾロ自身ですら認識している性格をしている割には人受けが良い。仲良くなりたい
と思って、そうなれなかった奴はいなかったし、女は向こうからほいほい寄ってきて選びたい放題だった。それもこれもどれも、人魚姫の血のお陰、なのかもし
れない。
でもそれによって自分が何か得をしているとはゾロには思えなかったのだ。ゾロにとってそんなことは大切なんかではなかったからだ。ゾロにとって大切なこ
とは、剣を振うことだけだった。それなのに海中の城を守る騎士団には入ることを許されなかった。曰く、こんな美しい人を戦わせるわけにはいかない、であ
る。馬鹿にしているとしか思えない。というかそんなこと言う相手が実際馬鹿で間抜けだ。そんなこと、お姫様ごっこしたい女にでも言ってれいば良い。丁重に
お人形扱いされるのも、色目使われるのもゾロはこりごりだった。
そんなことを考えていたら少々苛々してきて、そのまま呆気にとられた女を置いて、ゾロはさらに一回、二回と水を蹴って上昇した。
地上へと行くことは本当は禁じられている。かつては十五歳を迎えれば、地上の世界を見ることが許されたそうだが、人魚姫の一件以来どうやら禁じられてし
まったようだ。だがそんなこと知ったことではないとばかりに、ゾロは苛々するたびにそうしている。最初は過保護な周囲への当てつけだった。でも今は違う。
気泡が海面へと浮かんで行くのと同じスピードで泳いで行けば、段々と息苦しいまでの濃い紺色が薄れて、海底では絶対にみることができないきらきらした太陽
の光が差し込んでくる。そして海面から顔を出せば色々な表情をした空が見えた。雲ひとつない、暗くなるばかりの海の青とは違った白く抜けて行くような青い
空だったり、灰色がかった雲に覆われた空だったり、ぽかりと金色の月というものが浮かぶ黒に近い紺色の空だったり。見るたびに違った面を見せる様でそれが
とてつもなく気持ちよくて癖になってしまった。
だが、今日は常のようではなかった。泳いでも泳いでも、地上へは確かに近づいているはずなのに光は差し込んでこない。それどころか、波は激しく重く打ち
寄せてくる。そしてそれに混じって木片やら何やらも沈んできて、ゾロは思わず目を見開いた。浮かんで行くものが多くて、沈んでくるものが少ない海底で過ご
すゾロには、新鮮で、どこか違和感のある光景だった。
雨みたいに次々と落下してくる、何か《残骸》めいたものを掻い潜って海面からやっとのこと顔を出せば、そこには夜の闇の中で大いに荒れた海と、そして沈
みゆく船が見えた。ばたばたと感じたこともないくらいに強い風に吹かれる白い帆だったものが、例のお伽話の中の助けを求める溺れた手みたいで、嫌な感じが
して周りを見回す。だが、どんなに見渡しても見えるのは重い雲と濁った波ばかりだった。
そんなときだった。どこからかふと呼ばれたような気がして振り返れば、遠い海面上にゆれる手みたいなものが見えたような気がして、ゾロは思わずそちらの方へと泳いで行く。
あまりクリアではない視界の中、それでも近づいて行けば、力尽きたのだろう波に流されて沈んでいく影が見えて、ゾロはそれを捕まえた。
近くの海岸へとその男を運び終える頃にはすっかりと夜は明けていた。
夜中の嵐など嘘のように、雲はほとんど消え去り、数少なく残っているそれも白く穏やかに青い空を漂っていて何とも言えない気分の良い朝だった。
そんな中、ゾロは男を浜辺へと横たえ、初めてこんな近くで見る人間なるものをまじまじと観察していた。
ゾロにとって本来人間に対して興味があったところというのは、体を支えるにもかかわらず細く頼りない足であったり、体に纏っている妙に複雑な服であった
り、靴であったりと人魚たちの持っていないものだった。それなのに、そんなことよりも何よりもゾロの目を引いたのが、何故だかその男の金色の髪であった。
海面近い海の中に差し込んでくる光みたいなきらきらした金色の髪。今も朝の光を受けて太陽と同じ色に輝いている髪。ゾロは何故だかその髪に無性に触ってみ
たくなって、男が起きる気配をみせないのを確認してから手を躊躇いがちに伸ばした。
が、その髪に手が触れようとした瞬間だった。男は唐突に、でもうっすらと男は目を開けた。
「……っ」
ゾロはびくりと驚いて手を引っ込めた。そして反射的に、男が本格的に意識を覚醒させる前にと海へと体を引きずって必死で戻る。多少音がたったって構いやしない。どうせ波の音は嵐の余韻でまだまだ騒がしかった。
泳いで泳いで、絶対に追いつかれることのない距離まで遠ざかったら、ふうと一息ついた。どくどくと心臓が大袈裟なまでに打っているのが分かる。これしき
の距離で息が上がるはずもないことは良く分かっているのに。仕方がないから大きく深呼吸して、先程までの記憶を探り出す。
思い出せたのはたったひとつだけ。あの男の一瞬見えた瞳の色。それは抜けていくような綺麗な青だった。ゾロが空と言って一番最初に思い浮かべられる色。
「空みてェなやつだったな」
あの金の髪の色も相まって、ゾロはそう零した。心臓はまだ、大きく打っていた。
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