「わ、悪ィ」
ゾロがそう、珍しく狼狽えたように言うのを、サンジは耳のすぐ側で聞いた。突如として腕を引いたゾロの肩口に、当然ながら腕をとられていたサンジは、咄嗟に上手く反応できずにおもいっきり突っ込んでしまったからだった。
椅子に座るゾロに覆いかぶさるような、ともすれば抱きついているようにすら見える体勢になってしまったサンジは、そのあまりの近さに思わず動揺した。普段
喧嘩するときだって似たり寄ったりではあることは分かっているのだが、そういうときは大概アドレナリン分泌されているし、ある意味心の準備ができているか
らいいのだ。だが、今はあまりに不意討ちであったからなのか、心臓がとてつもない速さでばくばくと騒がしく鳴っている。そんな自分にサンジは思わずつっこ
まずにはいられなかった。
べたべたな少女マンガかよっ。あ、いや違う。何少女マンガとか血迷ったこと言ってるんだおれ。あ、あれだ。今こんな心臓ばくばくいってるのは、ほら、思い
がけずこけそうになったからびっくりしただけで。おれってバランス感覚いいから滅多にこんなことないし。うん。そう、言うなれば吊橋理論みたいなっ…てそ
れも違うっ。それ、恋に落ちる理論だからっ。とにかく落ち着け、おれっ。
そんな風に心中では百面相を繰り広げるサンジであったが、はた目には一切そんな素振りを見せない為に、逆に無表情でフリーズしたように見える。そんなサンジを不審に思ったのか、ゾロは常にない様子の彼に恐る恐るといった感じに声をかけた。
「おい、大丈夫かよ」
「…」
「おい、コック?」
そう言って温かくて大きい手で肩を緩く揺さ振られて、サンジははっと我に帰った。目の前には眉をひそめたゾロの顔があって、また一度心臓が大きく脈打つ。
冷静に考えればまあそこそこ整ってはいるが、はっきり言って悪人面甚だしくて、しかもずば抜けて格好良い訳でもないはずなのに、その顔はとても綺麗に見え
る。一見冷たそうに見える目元もクールビューティーだななんてポジティブに解釈する。毬藻と日々馬鹿にしている不可思議な緑色の頭もふかふかしていそう
で、ちょっと撫でてみたくなる。体格の割には小さい頭を両腕で抱え込んでもふってしたくなる。その他にも挙げきれない程たくさんあるそういったある意味誤
認識に、サンジは自分でも恋愛補正が働いていることを認めざるを得ない気がしてきた。おれ、こいつのこと…。
と、そんな風に思いかけたときだった。とん、と床を叩く軽い音がした。自分の世界にどっぷりと入ってすっかり忘れかけていた存在が、まだここにいるぞとで
も主張するように足音をたてたのだ。ここ一日二日でもはやお馴染みとなってしまった寒気が背筋に走った。それと同時にゾロも、いっそう眉間に皺を寄せ、唇
を舐める。幼なじみの少女の幻に緊張しているのかもしれないと、サンジは思った。
少女の足音は、一歩一歩の音を響かせるかのように、ゆっくりと続いた。たまに床の木材が、存在するはずもない少女の体重に負けてぎしりと音をたてるのも緊
張感というか、ホラー気分を煽る。サンジにはその音で一歩二歩と少女が近づいて来るのが手に取るように分かった。そしてとうとう少女はサンジの真後ろに立
つとお決まりのように、くすりとやはり耳障りな声で笑って、テレパシーでも使ったかの如く、正確にサンジの思考を読んで言った。
「いいの、本当にそんなこと認めちゃって?」
すぐ後ろに少女がいることはサンジはよく分かっていた。これが例えば七武海の一人であろうとも、ついこの間戦ったばかりの海軍の大将であろうとも、サンジ
は振り返って蹴りの一発くらいをくらわせることに躊躇いはなかっただろう。相手が女性の場合であれば蹴ることはできないにしたって、振り返って距離をとる
くらいはしただろう。でも、この少女が相手ではそんなことすら何故かできないのだ。それどころか金縛りの如く指一本すら動かせなくなる、そんな気がするの
だ。
「サンジさんは命を粗末にする人嫌いでしょ?」
少女はまた見透かしたみたいに断定的にそういった。昨夜と同じように否定したいような、そうできないような自分自身ですらよく分からない気持ちになる。
そしてゆっくりと勿体ぶるように間をあけて、先ほどまでのゾロと同じくらい耳元に唇を近づけた。少女の吐く息を感じる近さだった。
「人殺しなんて、嫌いでしょ?」
そう魔法の呪文を唱えるように囁いて、少女はすっと離れた。
体温が下がる気がした。
少女の発した言葉で今の今まで心地よく感じていたはずのゾロの手から伝わる体温が気持ち悪くなる。クールビューティーだなあなんて間抜けたことを考えてい
たはずの顔だって、冷徹な、感情の見えない風に見えた。サンジは思わず、肩に置かれたゾロの手をおもいっきり振り払って一歩じりりと後退った。ゾロの、容
赦なく刀を振るい、夢の為なんていう身勝手ですらある理由で人体を易々と裂く手を《汚い》と咄嗟にそう思ってしまったのだ。
「あ…」
でも次の瞬間、びっくりしたように、ともすれば傷ついたようにも見える、目を見開いたゾロの顔を見て、はっと我に帰るように一気にそんな気持ちは霧散した。
少女の吐き出した言葉も、それを聞いて乱暴に振り払った手も、本人は意地っ張りだから認めないだろうが、ゾロを傷つけたかもしれない。いや、確かに傷つけ
たと思う。たとえそうでなかったとしたって、《仲間》の自分がそんな態度をとるべきじゃあなかった。そうサンジは思い、唇を苛々と撫でた。胸がぎゅうっと
痛むと同時に、少女に対してどうにもならないもやもやとした思いも感じた。八つ当たり気味ではあると自覚あったが、わざわざゾロの目の前で、しかも彼女
が、そんなことを言ってはいけない気がしたのだ。
サンジは今までそうできなかったのが嘘みたいに勢いよく少女の方を振り向いた。そして未だ勝ち誇ったようにくすくす笑いを続ける少女のことを、おもいっき
り睨み付ける。しかし彼女は人一人だって射殺せそうなサンジの視線をもろともせず、心底可笑しそうに笑い続けた。
「おいっ…」
だからサンジは焦れたように、そう話しかけた。しかしその続きを言うことは叶わなかった。
気が付いたときには、ひゅんという風を切る音が聞こえて身体の直ぐ横辺りを赤い刀が走り、少女の身体に突き刺さっていたからだ。
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