「ゾロはさあ」

少女は背後でくすりと笑いながら言う。刀の柄を撫でているのか、時折金属の擦れる軽い音がして、その音がゾロのする仕草を思い出させる。困ったとき、緊張 したとき、そして苛々しているとき、ゾロは白い鞘の刀の柄をそんな風に撫でるのだ。そんな些細な癖にも、ゾロと少女の絆の深さが見せつけられた気がした。 そしてそれと同時に首の裏側の、丁度背骨が通るあたりにちりちりとした、なんとも言えない鋭い害意を感じる。可愛らしい少女の唇が狂気的な三日月型に歪 む、そんなイメージが脳裏を過って、サンジはそのあからさまな害意にも関わらず振り返ることができなかった。

  ホラーだよ、マジで。いや、可愛い女の子があの毬藻剣士にご執心とか、ヤンデレ?とかってだけである意味ホラーっちゃホラーだけど、そうじゃなくて。そうサンジは脳の半分で現実逃避を試みるが、少女がそのまま言葉を続けたことによりそれは失敗した。

「夢(わたし)のためだったら人だって殺せるし、あなたたちだって簡単に切り捨てられるんだから」

そうある種陶酔したようにうっとりと、刻み込むようにゆっくりと、言う。その言葉は何故かサンジにはやたらと現実的に聞こえた。ゾロはそんなことはしない と庇いだてしたい気持ちがある一方で、サンジの中には、あいつはそういう冷酷な奴なんだと嫌悪感も顕に吐き捨てる自身がいることも確かだった。

「ぽっと出のあなたなんかに入る隙なんて、ないんだから」

そしてたんっと靴が床を叩く軽い音がした。椅子から降りたらしく、サンジはまさか近づいてきやしないかと一瞬緊張したが足音は甲板へと続く扉の方へと遠ざかっていくだけだった。おやすみなさいと場違いな程幼い声だけ残して、少女はラウンジから出ていった。

  やっとのことで振り向いたサンジの目には、少女の来ていたワイシャツの白い残像だけがやたらと強く残った。




  翌日も、やはりというか予想通りというか期待外れというか、原因の少なくとも一部だとしか思えない、あの果物のような甘い香りを放つ蒸気は立ち昇ったまま だった。サンジはそれを受け、朝食のときにロビンに目配せをしてから幻覚のことをクルーに話した。本来であれば昨日の夕食のときにでも話すべきだったのだ ろうけど、害もなさそうだというし(精神的ダメージは中々に大きいが)、なんとなく気が退けていたのだ。

  サンジ自身としてはいい。まだ自分自身の幻覚を見ていないのだから。でもゾロやロビンとしては実害がないのであれば、黙っていて欲しいのではないかと思っ たのだ。幻覚について話せば、当然その内容について触れられる可能性だってある。だけど誰だって、自分の弱い所など不用意には触れて欲しくないだろう。い や、人によってなのかもしれないが、少なくともサンジは嫌だし、プライドの高いゾロも、多分それなりにダークな過去を持っているだろうロビンも嫌だろう。 しかし同時に、いや、でも知って欲しい気もするかもしんねェ、おれのこと少しだってゾロに知ってもらえたら…とそこまで思って、サンジは我に帰った。いや いやいや。ねェからそんな心理。どこの恋する乙女だおれァ。恋もしてねェし、(あ、麗しいレディたちにはいつだってしてるぜ。ナミさんらぶー、ロビンちゃ んらぶー、世の美しい女性たちらぶー)乙女でもねェから。まあともかく、自分が望んでもいないのにそんなことになるのは嫌だろうとサンジは思った訳であ る。ナミに話してしまえばクルーの半分が知っていることになってしまうのだが、そこは女性至上主義のサンジである。仕方がない。




  話を聞いたクルーの反応はまちまちであった。もう既に何やら見てしまっていたのか安心したようだったり、表面上はいつも通りだったり。ルフィなんかは普段 通りの好奇心で「おれも見てェ」と目を輝かせていた。他の奴だったら何言ってやがるとキレたかもしれないが、ため息一つで済ませた。仕方ない。ルフィだ し。ちなみにチョッパーは昨日すでにロビンから聞いていたのか、さっそく蒸気の成分を調べているようでやる気満々だった。

  そんなこんなで朝食が終わると、いつも通り、皆三々五々に散っていった。たった一人を抜かして。なんと珍しいことに、というかサンジの記憶の限りでは初め てなのだが、ゾロが用事があるわけでもなかろうにラウンジに居座ったのだった。暇そうにしていたからとりあえず朝食の片付けを手伝わせてみたのだが、ゾロ ができそうなことがあらかた終わると、腕を組んで目を瞑り、テーブルの片隅にどっしりと陣取り、出ていくつもりはなさそうだった。

  サンジはそんなゾロに背を向けて皿洗いをするのだが、どうにもゾロの気配が気になってしまい、何度も危うく皿やらコップやらを落としかけて肝を冷やした。

  クソッ、なんだってんだ。何でわざわざラウンジに居座んだ。幻覚が怖ェのか?あのゾロが?いや、あの子だったら確かに怖ェかもしんねェけど、そうだとし たってルフィのとこなりどこへなり行けばいいじゃねェか。あ、いや、ルフィじゃなくておれのとこに来てくれんのは嬉し…いやいやいや、何考えてんだおれ。 ともかくあいつがいると何かどきどきす…って違うっ。落ち着けおれっ。そんな風に心の中ではかなり動揺しているものの、そんな素振りは一切見せずに皿を割 ることなくどうにか洗いきり、手を拭きながら後ろを振り返った。ゾロは最後に見たときと同様に、どうせ眠ってはいないのだろうが目を瞑っていた。そんなゾ ロに一歩二歩と近づくうちに、サンジの口からは勝手に言葉が転がり出た。

「なあ、ゾロ」

「…んだよ」

やはり眠ってはいなかったのだろう、ゾロはすぐに片目を開けて問い返してきた。しかしサンジは、本当に無意識に話しかけてしまったものだから、特に話した いことなど当然あるわけもなく、今更ながら困った。幻覚のこと聞いていいかなァ、いやそれはデリカシーがねェかなァ、なんて視線を左に右にと移しているの をゾロが不審そうに見ているのがなんとなく分かった。

  そんなときだった。急にゾロの気配が変わったのだ。不審に思って顔を見てみれば、丁度サンジの後ろ辺りを見て目を見開いている。あァ、またあの子か。そう思ったときにはサンジはゾロに強く腕を引かれていた。


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