「あの海は、人を惑わせる海なんだ」

昼間ではあるが照明を落とし気味に設定された薄暗く騒がしい、荒れくれ者たちが集う酒場で、店主はカウンターのスツールに腰掛ける客にそう言った。この酒 場の、お尋ね者も歓迎といった雰囲気には似つかわしくない、落ち着いて上品そうな黒髪の美女に、である。

  どうやらその客は船旅をしているらしく、港のこと、島のこと、その歴史のこと、そしてこの島から次の島への海についてと、何に対してでも興味深そうににこ にこと話を聞いてくれるので、中々楽しかったし、当然口も軽くなった。そしてその中で、その都市伝説みたいな話を思い出したのは本当に偶然であった。

「いや、そんなこと言っても実害はあんまりないからね。船をしょっちゅう出すわけでもないし、普段は皆忘れてるくらいなんだが」

そう言って店主は絞ったばかりのオレンジの果汁を客の前に出した。客はにこりと微笑んで礼を言う。美人にはサービスするものだ。

「あの海をここらの人間は皆《影想いの海》って呼んでてるんだ。人の弱いところや、不安に思ってることを形にしちゃうからね」

「…弱いところ?」

客がそう、一瞬笑みを陰らせて聞き返したときだった。不規則なばたばたという大勢の足音が聞こえ、次いでばこっと何かがへこむ音やどかっばきっという明ら かな乱闘の気配がする。

「いたぞっ。麦わらの一味だっ」

どうやら海賊でも出たらしい。物騒だなあ、店内には入って来ないといいなあと呑気に思っていると、客は音もなくすっと立ち上がった。

「もう行かないといけないみたいだわ」

そう心なしか楽しそうに微笑んで硬貨をカウンターに置くと、彼女は足取り軽く店を出ていった。


影想い


「お疲れさま、ナミさん、ロビンちゃん。お茶でもどうぞ」

そう言ってサンジは両の手にひとつずつ湯気のたつカップを、頭の上には焼いておいたクッキーを盛った皿をのせて、優雅に二人の座るテーブルへと歩いていっ た。 テーブルへとつけば、二人の前に音を立てないように注意しながらカップと皿を置く。その際にさり気なさを装いつつ二人の顔を覗きこんでみれば、やはりその 顔には少々の疲れが滲んでいた。当然だ。いつものことと言えばいつものことであるが、今日も今日とて好奇心純度百パーセントの船長はそれが災いして港で騒 ぎを起こし、メリー号は傷んだ船体に鞭を打って追われるように港を出る羽目になったのだ。そしてつい先ほどやっとのこと海軍を引き離したところだった。

 あの考えなしのクソゴムめっ。クッキーの分け前減らしてやろうか。そうできもしないと自分でもよく分かっていることを考えながら、サンジは一度女性陣にお 辞儀をして調理スペースへと戻る。野郎どもにもお茶を準備しなくてはいけないからだ。後ろでナミとロビンがぽつぽつと話し始めていて、サンジは後ろ髪を引 かれる思いではあったのだが、こればかりは仕方ない。

「そうだ航海士さん、コックさん。あの街で《影想いの海》の話って聞いたかしら?」

「影想いの海?」

ナミがいつもの如く美しい声の、語尾を少々吊り上げてそう尋ねた。

「ええ。詳しい説明を聞く前に騒ぎになってしまったから、気になって」

「ふうん」

そしてナミは一度考えこんだのかそれにはすぐに答えず、一口二口と紅茶を飲んだようで、コップをソーサーにおく控えめな音がたった。

「聞き覚えがある気もするんだけど、港では聞かなかったわね。ルフィのお守りでいっぱいいっぱいよ」

するとロビンがいつもの如く、おっとりと言う。

「でも、ルフィとそういう風に出掛けるの、航海士さん楽しそうだわ」

「んー、まあ否定はしないでおくわ。その分疲れるんだけどね」

ああナミさん、クソゴムになんて勿体ないお言葉を。そう心中では思いながらも、自分だってその言葉には反論できないだろうとはやはり分かっている。そんな 自分の心情も半ば苦々しく思いながら、カップを温めるためにひとつひとつにお湯を注いでから、後ろをふりかえり尋ねる。

「で、ロビンちゃん。その《影想いの海》ってのは?」

振り向いた先には当然、美女二人がお茶を優雅に楽しんでいて、サンジはいつだってそう思うのだが、今日もやはり目の保養だ、最高の癒しだ、もうここはおれ にとって天国だっ、としみじみ思う。目からめろりんとハートマークを飛ばして、できうる限りの賛辞の言葉を贈りたいくらいだ。しかし話が進まなくなるから そこは自重する。

そんなサンジにロビンはうっすらと微笑んで返した。

「よく私にも分からないのだけど、人の弱いところを形にする海、だそうよ」

「弱いところ」

ナミが若干不安そうにそう呟いた。

 弱いところ。

 それを聞いた瞬間にサンジが思いついたのは、何故か、小心者なウソップでも、臆病なチョッパーでも、守るべき対象として心に決めている女性陣でもなく、 《弱い》なんて言葉とは最もかけ離れているだろう剣士の後ろ姿だった。

 ゾロが人のいない後方甲板や男部屋の隅で白い刀をぼうっと、常の通りの感情の見えない瞳で眺めている。決して悩んでいる風でも迷っている風でもない、ふて ぶてしいとさえ感じるそんな姿が咄嗟に浮かんで、サンジは首を捻った。そうしている内にも手は、そんなサンジ自身とは裏腹に淀みない動作で勝手にカップへ と紅茶を注いでいる。そして注ぎ終われば意思のない手は盆を掴む。

「じゃあお二人ともごゆっくり。おれは野郎どもにこれ出してきますから」

そう言って足早にキッチンから出ていった。


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