表、オモテ
明け方、うっすらと辺りが明るくなってから帰宅した。大体いつも通りの時間だが、最近やっと日の出が早くなってきたのか、随分と久しぶりにこうして朝日
を拝んだ気がする。昇り始めたばかりの朝日は、夜と暗闇に慣れた目には幾分明る過ぎる光だった。
きちんと神経質に揃えられた革靴の横で足にまとわりつくスニーカーを乱雑に脱ぎ捨てて、鉄くさい薄手の上着も脱ぐ。腰にさした刀だけは一応丁寧に立て掛
け、椅子の背もたれに脱いだ上着を引っ掛けたところで、机の上のメモ帳に半ば確信的に気付いた。文字が這う一番上の一枚を適当にちぎりとれば、四文字の言
葉に出迎えられる。
《おかえり》
筆圧の薄い流れがちなやる気のない線で、素っ気なくそう一言。どうみたって面白みも何もあったものではない。だがそれを見て、唇の端が自然と吊り上がるの
が自分でも分かった。一人でにやけるなんて気色悪い。そう自分でも思うのだが、こればかりはどうにもならないようだった。
因みに書いてあることはいつも同じだ。おかえり、とただ一言だけ。でも、いつも少しずつ違うのだ。時間がなかったのか字が走っていたり、逆にやけに丁寧
だったり。毎回同じことを書くのに、あいつは毎日飽きもせず書き直すのに気が付いたのはいつからだったろうか。無駄なことをとその時は確かに思ったはずな
のに、何だか最近はそれが嬉しかったりもして癪に障る気もする。
メモの切れ端を机に戻して今度は冷蔵庫の方へと近づけば、そちらにもメモ。こちらは何やら丸っこい薄い緑の磁石でひっつけてあった。相も変わらずマメなや
つだ。曰く《チンして食え》。ついでにお節介なやつだ。だが、そうは思いつつも、自分の手は自然に冷蔵庫から皿と碗を取り出すと電子レンジにそれらを詰め
込んだ。炊飯器にはきっちり二人分の米が炊き上がっていたので、そちらは半分くらいを大まかに茶碗によそう。餌付けされているだの、飼い馴らされているだ
の、思わない訳でもない。
手早く飯を食べてしまうと食器を洗う。使った覚えのない食器類が水を切って置いてあるのもいつものことなのでついでにしまう。家のあちこちに置いてある灰
皿から煙草の吸い殻を回収して、灰皿も軽く洗う。一体何という煙草なのかも分からないのに、匂いだけは記憶していて何となく愉快で、かつ不快だった。
それらがすっかり終わってしまうと、風呂に入って、洗濯をする。一緒に洗濯機に入っていた、いまいちどう着こなすのか想像がつかない縦縞のシャツも干す。
煙草の匂いが染み付いていそうな気がしたが、きっと気のせいだろう。全部一緒くたに洗剤の匂いがするはずだ。洗濯したのだから。
最後に机のところでしばらくぼんやり考え事して自分らしくないことを思いついた。そのあと玄関に先ほど届いた新聞を取ってきてから、財布やら携帯電話やら
を引き出しにいれて鍵をかけた。そして目覚まし時計を十二時一分とニ時に設定すれば一日は終わる。
おやすみ、と誰にともなく呟いた。やはり、会ったこともないあいつに飼い馴らされている気がした。
自分の中に確かにあいつは住み着いている。色々な意味で。それが嫌なくらいよく分かってしまうのだ。
おれたちは身体を共有している。お互いに会ったこともなく、顔も知らない。相手がどういう人物なのかも分からない。
でも、あいつに何かしてやりたいと思う気持ちは一体何なのだろうか。
ジリジリという、ベタとも古典的ともいう目覚ましの音で目が覚めた。午後2時ジャスト。朝日、というか既に日は高く昇ってるのだが、開け放されたカーテン
の隙間から日の光が入り込んで、とにかく眩しい。
1分、2分とぼんやりしてようやく頭が起きだしてくると、いつもの通り着ているパーカーを脱いで、洗面所の鏡の前に立った。
まず眠気で覚束ない手で顔を洗った。なんとなく、昼間に相応しくないような疲れた顔と、くたびれた金髪が鏡に映った。それから目を反らして、今度は体を映
す。見慣れた、でも覚えのない傷が這う胸と腹をよくよく観察する。傷はざっと見た感じないようだった。続いて肩と腕を確認する。今日は左腕に切り傷があっ
た。ちっと舌打ちが思わずでた。水を付けたガーゼで拭いて、最早この場所が居場所となってしまった消毒液を、八つ当たりみたいに乱暴にかける。傷口に染み
て涙がでそうになった。
服を着替えると、今度はリビングに行く。コートが散乱しているのはいつものことだ。ハンガーにかけ、消臭剤をぶっかける。血なまぐさいのは好きじゃない。
特にことあいつに関しては何故か。左袖は多分すっぱりと切れ目が入っているはずだったが、取りあえずは放置する。休日にでも縫ってやるつもりだ。
食事をしようとテーブルにつけば、破られたあとのあるメモ帳とメモの欠片が見つかった。少しシワのついたメモには《ごちそうさん》と、割に几帳面な字で書
かれていた。意外と律儀なやつなのだ。そう、自分のことのようになんとなく誇らしげに思う。実際にある意味では自分自身と言っても差し支えないのかもしれ
ないけれど。
諸々やらなくてはいけないことを終わらせ、いつの間にか綺麗にされている灰皿で煙草を吸い、取り込まれていた新聞に目を通す。それが終わると大体家を出る
時間になる。リビングのメモに《おかえり》と書き込んだ。こんなことをして、一体何の意味があるのかは分からない。会ったことも、これから会うこともない
あいつに何かができているのかも分からない。でも、書きたい気がして、つい書いてしまうのだ。誰にも出迎えられないのは、少し寂しい気がする。ましてやあ
いつが今までも、これからも誰にも出迎えられることがなさそうだと思うと。もしかしなくたって自分が独り善がりにそう思ってるだけなのかもしれないけれ
ど。
家を出ようと玄関に行く。脱ぎ捨ててあったスニーカーを直して、靴をはいた。そして鍵をとろうとしたときに、メモに初めて気付いた。今まではこんなこと1
度だってなかったのだ。
《いってこい》
乱雑な字で素っ気なくそう一言。でも、おれは泣きそうになりながら笑うのが止められなかった
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