現実というのはきっと常に、現実感が欠如している。大切なことになればなるほど、現実感は自分の中から喪失していくのだ。まるであいつと二人でよくやっ た、長い航海での暇つぶしのチェスみたいだった。ここでルークの駒を犠牲にすれば、守るべきキングは守れる。ついでに言えばナイトも守れた。だから、ルー クを前進。あいつは笑う。さようなら次のゲームまで。そんな感じにあいつは死んだ。

 違うのは、次のゲームはもうやってこないこと。ルークの駒は砕けて、ばらばらになって、壊れた。駒の足りないセットでは、ゲームはもうできない。



エンドゲーム・スタディ  ナイト



 多分、おれは浮かれていたのだろう。あの日、おれはゾロとデートだった。デート、なんて言っても、所詮は買い出しでしかないのだけれど、それでもおれは すっかり浮かれていた。だって買い出しでさえ、うちの船の戦略的バランスを考えればおれたち二人っきりというのはほとんどなくて、嬉しかったのだ。更に言 えば長い長い片思いを経て付き合いだしたばかりで、そんなちょっとのことですら浮かれられる時期だったというのもある。
手を繋ぎたかったけれど、流石にそれはあいつに手を払われた。だからわざと少し唇をひん曲げて見せて港町の市を雑踏に混じって二人で見て回ったのだ。

 そこからは定番と言えば定番の展開。暴漢に襲われた女の子を庇おうとして、おれはへまをやらかした。




 島に着いてから、直ぐにナミさんは指示を出した。

「じゃあ買い出しはサンジ君とゾロ、お願いね」

ナミさんがおれにだけ分かるようにウィンクして言う。付き合いだしたばかりのおれたちに気を使ってのことだろう。おれは飛びあがらんばかりに喜んだ。流石ナミさん。なんて気のきく素敵な女性なんだっ。そう思ったが、他のクルーの手前いつものように悪態を吐いてしまう。

「このクソマリモとですかっ」

「あら不満?」

そんな風にナミさんは悪戯っぽく訊ねてくる。

「いえいえー、ナミさんの指示とあらば火の中水の中。おいっ、行くぞゾロ」

そういってゾロの手首を掴んで船から飛び降りた。そうは見えなかっただろうけど本当は、そんな微かな動作にさえ緊張で手に汗をかいた。じっとりした手でゾ ロに嫌がられやしないか、そんなことばかり気になった。しばらくしたら、どうにも耐えきれなくなったのかゾロに振り払われてしまったから、そんな心配も無 用になったけれど。

 それからしばらくしてからだ。人波を縫うように二人で歩いていたら、路地裏から、女の悲鳴らしきものが聞こえて意識がそちらに向いたのだ。ほんの一瞬で ある。だがその一瞬の隙に奇跡的迷子のあいつとは逸れてしまったらしく、緑色の頭はもう既に視界にはなかった。折角のデートだったのに。そう思うものの、 女の子の悲鳴を放っておくこともできず、おれは軽く舌打ちをして声のする方へと向かった

 予想通りと言えば予想通り。散らかったごみと、きついアルコール臭が撒き散らされているそこには数人の柄の悪い男、多分海賊の類だろう奴らが、一人の女の子を取り囲んでいた。

「てめェらなにしてやがる!!」

そう怒鳴りこんで、女の子を囲む男に跳び蹴りをお見舞いする。ひい、ふう、みい、で三人、一気に蹴散らした。その後は地面に手を付いて得意の回し蹴り。それで残りの男たちを一掃した。嫌に呆気なかったが、おれは浮かれていて、そして早くゾロを探したいと焦っていた。

 だから、いつもよりも気もそぞろに、何の警戒心もなく彼女へと手を差し伸べたのだ。

「大丈夫ですか、レディ?」

そう言った瞬間に、顔を上げた女の子はおれに向かってスプレーのようなものを吹きかけた。スプレーのようなもの、というか具体的に言えば催眠スプレーだ。当然、おれの意識は一端そこで途切れた。

 倒れる瞬間、チェスの駒、ルークがポケットから転がり落ちた。





 次に意識が戻ったとき、ゾロは死んでいた。おれは後から、おれを人質にとられ、ゾロが投降して、そして無抵抗だったにも関わらず問答無用で銃で撃たれて 死んだことを知った。大剣豪を目指した強い男とは思えない、あんまりにも呆気ない幕切れだ。チョッパーによって清められた安らかで小憎たらしい死に顔に、 現実感がついて来なかった。よく言うことではあるが、本当に眠っているようだったのだ。そのせいでおれは悲しくすらなれなくて、泣けなくて、何が起こった のかよく分からなくて。まるでできの悪いどっきりを仕掛けられたみたいで。おれはずっと、背中からぽっかりとどこかの空間に吸い込まれそうな、そんな空虚 さを抱えていた。

 ゾロを葬ったときでさえ、おれはそんな調子だった。あいつが焼かれて、骨になったらもっとよく分からなくなってしまった。なんで隣にゾロがいないのかが、理解できなかった。

 なんで、こんなことが現実なのか。どうしてゾロはおれのことなんて庇ったのか。どうしておれの不注意だったのに、ゾロが死んだのか。まるで理解できなかった。死ぬのなら、おれが死ぬべきだったのに。そう思った。そう思ったら、悲しくなんてなれないのに涙が出てきた。

 感覚なんて溶ける様に全部なくなって、なんで、なんで、なんで、そんな言葉がずっと頭の中で響いていた。

 そんな馬鹿に薄まった感覚の中で、声が聞こえた気がした。

「じゃあ、どうにかしてみろよ」

足元にはひびの入ったルークの駒が転がっていた。おれはそれをそっと掬い上げた。

 そうしたら、ルークの先にブーツの足が見えた。おれは驚いて、その足をゆっくりと辿って見上げれば困った顔をしたゾロがそこにはいた。

 ああ、やっぱりいるじゃねえか。よかった。やっぱり、現実じゃなかったんだ。おれはそう思った。





 真夜中、波の音だけがするメリー号で嫌な汗をかいておれは目を覚ました。はあはあと、荒い呼吸でハンモックから起き上がって、他の、というかひとつのハンモックを見やる。そこには、ちゃんとゾロがいて、おれは大きく溜息を吐いた。

 嫌な夢見ちまった。水でも飲んで少しでも寝ないと。明日には、いや正確には今日にはもう島に着くらしいのだから。そう思い、ハンモックから跳び下りれば、ズボンから何かが転がり落ちた。昼間ゾロとやったときに入れっぱなしにしたのか、ルークの駒だった。





 翌朝、ナミさんの予想通りに島に到着した。

「じゃあ買い出しはサンジ君とゾロ、お願いね」

ナミさんがおれにだけ分かるようにウィンクしつつ言う。付き合いだしたばかりのおれたちに気を使ってのことだろう。いつものおれだったら飛びあがらんばかりに喜んだことだろうが、おれは嫌な予感がした。

「このクソマリモとですかっ」

「あら不満?」

それでもナミとの他愛のない軽口は続いて行く。まさか、ただの夢だろ。そう心の中で言い聞かせた。

「いえいえー、ナミさんの指示とあらば火の中水の中。おいっ、行くぞゾロ」

そういってゾロの手首を掴んで船から飛び降りた。緊張で手がべたついた。途中で夢の中の通り、頬を染めたゾロに振り払われてしまったけれど。

 それからしばらくしてからだ。人波を縫うように二人で歩いていたら、路地裏から、女の悲鳴らしきものが聞こえて意識がそちらに向いた。どうしよう。夢の 中では、どうやら女性はあの男たちの仲間だったようだ。ここで聞かないふりをしたらいいのかもしれない。でも、もしあれが唯の夢だったとしたら?女性を見 捨てていいのか?そう考え込んだのはほんの一瞬である。だがその一瞬の隙に奇跡的迷子のゾロとは逸れてしまったらしく、緑色の頭はもう既に視界にはなかっ た。夢の中と同じ過ぎてじっとりと嫌な汗をかいてきた。しかし女の子の悲鳴を放っておくこともできず、おれは軽く舌打ちをして声のする方へと向かった。大 丈夫、女の子に声を掛けるときに気をつけさえすれば。そう心の中で呟いた。

 そして路地裏を分け入って見れば、夢の中で見たとおりの光景がそこにはあった。散らかったごみと、きついアルコール臭が撒き散らされているそこには数人の柄の悪い男、多分海賊の類だろう奴らが、一人の女の子を取り囲んでいた。

「てめェらなにしてやがる!!」

そう怒鳴りこんで、女の子を囲む男に跳び蹴りをお見舞いする。ひい、ふう、みい、で三人、一気に蹴散らした。その後は地面に手を付いて得意の回し蹴り。それで残りの男たちを一掃した。嫌に呆気なかった。夢の中のおれはここで油断したんだ。

 だから、慎重に、彼女の一挙一動に気を配って、おれは声をかけた。

「大丈夫ですか、レディ?」

だがその瞬間におれは後頭部に強い衝撃を受けた。そして次の瞬間には意識が途切れた。

 倒れる瞬間、ルークがポケットから転がり落ちた。




 次に意識が戻ったとき、ゾロは死んでいた。おれは後から、おれを人質にとられ、ゾロが投降して、そして無抵抗だったにも関わらず問答無用で銃で一斉に撃 たれて死んだことを知らされた。大剣豪を目指した強い男とは思えない、あんまりにも呆気ない幕切れだ。チョッパーが必死に努力したそうだが、顔にも身体に も何発も何発も銃が撃ち込まれて、ゾロの顔の原型も分からないような有様だったらしい。だから、おれはその死体がゾロのものだとはやはり信じられなかっ た。それが紛れもなくゾロだと知っていたのに、理解できなかった。そのせいで悲しくすらなれなくて、泣けなくて、何が起こったのかよく分からなくて。まる でできの悪いどっきりを仕掛けられたみたいで。おれはずっと、背中からぽっかりとどこかの空間に吸い込まれそうな、そんな空虚さを抱えていた。

 ゾロを葬ったときでさえ、おれはそんな調子だった。あいつが焼かれて、骨になったらもっとよく分からなくなってしまった。なんで隣にゾロがいないのかが、理解できなかった。

 なんで、こんなことが現実なのか。どうしてゾロはおれのことなんて庇ったのか。どうしておれは夢を見ていたのに止められなかったのか。どうしておれの不 注意だったのに、ゾロが死んだのか。まるで理解できなかった。なんでおれが死ななかったんだろう。そう思った。そう思っても今度は涙さえ出てこなかった。

 感覚なんて全部なくなって、なんで、なんで、なんで、そんな言葉がずっと頭の中で響いていた。

 そんな馬鹿に薄まった感覚の中で、また声が聞こえた気がした。

「まだまだやれるだろ」

足元にはひびの入ったルークの駒が転がっていた。おれはそれをやはりそっと救い上げた。

 そうしたら、ルークの先にブーツの足が見えた。恐る恐るその足をゆっくりと辿って見上げれば顔も身体も穴だらけの、なんで立っていられるのかも分からな いような酷い状態のゾロがいた。顔は潰れて跡形もないけれど、それは確かにゾロだと分かった。何かを言っているように口が動いているが、音は聞こえない。




 


 真夜中、波の音だけがするメリー号で嫌な汗をかいておれは目を覚ました。はあはあと、荒い呼吸でハンモックから起き上がって、他の、というかひとつのハ ンモックを見やる。そこには、ちゃんとゾロがいて、安らかな寝息を立てていて、おれは大きく溜息を吐いた。でもそれと同時に、不安になる。また、だ。

 水でも飲んで少しでも寝ないと。明日には、いや正確には今日にはもう島に着くらしいのだから。そう思い、ハンモックから跳び下りれば、ズボンから何かが 転がり落ちた。昼間ゾロとやったときに入れっぱなしにしたのか、ルークの駒だった。おれはそれをそっと掬って握りしめた。






 翌朝、おれが知っていた通り島に着いた。

「じゃあ買い出しはサンジ君とゾロ、お願いね」

ナミさんがおれにだけ分かるようにウィンクしつつ言う。付き合いだしたばかりのおれたちに気を使ってのことだろう。いつものおれだったら飛びあがらんばかりに喜んだことだろうが、おれにはそんな風に浮かれている余裕はなかった。

「このクソマリモとですかっ」

「あら不満?」

それでもナミさんとの他愛のない軽口は続いて行く。でも、それとは裏腹に心の中は冷静になっていく。夢の中で見たのだ。もう同じ轍は踏まない。絶対にゾロを助ける。自分の命に代えても。

「いえいえー、ナミさんの指示とあらば火の中水の中。おいっ、行くぞゾロ」

そういってゾロの手首を掴んで船から飛び降りた。途中で夢の中の通り、頬を染めたゾロに振り払われてしまったけれど。

 それからしばらくしてからだ。人波を縫うように二人で歩いていたら、やはり路地裏から、女の悲鳴らしきものが聞こえてきた。だがおれはそれを無視した。 心が痛まないかと言われれば、痛まないはずがないのだけれど。だが、そんなおれが挙動不審になってしまっていたのか、ゾロが悲鳴に気が付いてしまった。

「おいクソコック、行くぞ」

ゾロはそうおれに背中を向けて走り出した。しかし、おれはその腕をしっかりと掴んだ。多分、本当に死ぬ気で掴んだ。背中を向けて走り出すゾロが、色んな意味で死に向かっているとしか思えなかったのだ。

「馬鹿、行くな!!」

だけどゾロはそんなおれの手を強引に払って走って行った。振り払われたおれはそんなことされるなんて思ってもみなくて受け身を取り損ねて派手に背中を打ちつけた。一瞬、息が止まる。そしてその衝撃で、ルークがポケットから転がり落ちた。

 そして、遠くから銃声が聞こえた。






 おれがその路地裏へと辿り着いたとき、ゾロは死んでいた。何発も何発も被弾したのか、おおよそそれがゾロだとは分からないような有様だった。トレード マークの腹巻は真っ赤に染まり、珍しい緑色の髪には血がこびりついていた。大剣豪を目指した強い男とは思えない、あんまりにも呆気ない幕切れだ。チョッ パーが必死に努力したそうだが、やはりどうにもできなかった。だから、おれはやはりその死体がゾロのものだとは信じられなかった。それが紛れもなくゾロだ と知っていたのに、理解できなかった。悲しくもなれず、泣くこともできなかった。ただただ、どうして救えなかったのかという思いだけが胸を刺した。

 なんで、こんなことが現実なのか。どうしておれは夢を見ていたのに止められなかったのか。どうしておれは人質にとられていなかったのに、ゾロが死んだの か。まるで理解できなかった。なんでおれは生きているんだろう。そう思った。そう思ったけれど、おれは諦められなかった。

 次は絶対に救ってみせる。何回挑んだって良い。

 ごめん。ごめんゾロ。次は絶対に助けるからな。そう頭の中で何度も何度も呟いた。もう、認識できる感覚はそれだけだった。

 そんな馬鹿に薄まった感覚の中で、やはり声が聞こえた気がした。

「なァ、もっとできるはずだろ?おれはゾロのこと愛してるんだから」

足元にはひびの入ったルークの駒が転がっていた。おれはそれをぎゅっと握った。

 そうしたら、ルークの先にやはりブーツの足が見えた。恐る恐るその足をゆっくりと辿って見上げれば顔も身体も穴だらけで血だらけの、なんで立っていられ るのかも分からないような酷い状態のゾロが、予想通りにいた。顔は潰れて跡形もないけれど、それは確かにゾロだと分かった。

 悲しそうな瞳をしたゾロが、何かを言っている。でもおれにはやっぱり届かない。







 それからおれは、何度も何度もその日を繰り返した。

 手を繋いで無理にでも離さなかった日もあった。不審がられたがナミの指示に背いて他のクルーと一緒に買い出しに行った日もあった。おれと縁がなくなれば と、朝から別れ話をした日もあった。でも、駄目なのだ。何度繰り返しても、ゾロは死んでしまうのだ。それも回を増すごとにどんどん悲惨な死に方になってい くのだ。最初は綺麗な死に顔だったはずのゾロの身体は穴があき、血まみれになり、耳が無くなり、手足がなくなっていった。

 もう諦めたいと一瞬でも思ってしまったことは何度だってあった。だってどんな選択をしても、おれにはゾロを救えないのだ。

「ほんとうに諦めんのか?ゾロは死んじまうんだぜ」

『だってこれ以上どうしろって言うんだ』

「なあ考えろよ。まだやってないこと、あるじゃねェか」






 あるときおれは気が付いた。これが正解としか思えなかった。

 銃を向けられるゾロを抱きしめる。身体に弾が分け入ってくる熱い感覚は、途方もなく現実で、おれは嬉しさのあまり泣きそうになった。
 これで、ゾロが救えたんだ。

 最期の意識で見たものは、ゾロのポケットから転がり出たチェスの駒、ナイトだった。




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